軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

災害に学ぶ

台風14号による被害が,西日本を中心に広がりつつある.米国でもハリケーンで1000人近くが死亡し,水害で大損害が出た.
今回の「解散」で、投票日が「9・11」に決まった時,チャンネル桜の番組で「何か含みがあるのかどうか?」と話題になった.ニューヨークテロの象徴的な日であったから誰しもそう考えたのであろう。私は,二百十日、つまり9月1日に象徴される「天災」が多発する時機だから,行政府が「選挙,選挙」で浮ついていることはいかがなものか?と言ったのだが「二百十日」という言葉が既に「死語」になっている事を知った.つまり,日本人は,災害に対する備え,心構えを失っている,と思ったのである.水島氏が「確かに昔から言われている災害が集中する時ですね」と言ったが,まさかこんなにひどい台風被害が起きるとは,政治家の誰も考えていなかったに違いない.
昔から為政者の最大の務めは「治山治水」にあるといわれてきた.「民の釜戸は賑わっているか」と言うのが為政者の根本精神であった.ところが最近は全くその精神が失われて,ぎすぎすした「刺客騒動」に明け暮れている.
災害が起きるたびに,地元消防団や警察官,自衛官が狩出され,災害復旧や人命救助にあたり,マスコミは「風雨の中」で「勇敢そう」にレポートし,政治家は収まった頃避難民の前に「挨拶」に来るのが定番になってしまった.その消防団員や警察官,自衛官にも家族があり,同じ被害に遭っているかもしれないのに,彼らはひたすら「他人の救助」に全力を尽くす.それが彼らの「仕事だからさ」というのが最近の合言葉?だが,決してそうではない.「使命感」であり「責任感」からである.災害地を尋ねられる皇族方が、被災地の1日も早い復興を願われ,被災民の手をお取りになるお姿と,政治家達の姿に雲泥の差があるのは,頭の中にある事が「使命感」と「票」の違いのように思われてならない.今,候補者達は「九州地区の災害で票がどう動くか?」にしか関心がないであろう.

  • 昭和54年,私は九州の築城基地で,司令部幕僚をしていた.この地方は水利が悪く,いつも日照りが続くと渇水が続く.6月の田植え時期と重なるので,断水時間は24時間中16時間と言う,信じられない状況が続き,住民は生活に難渋するのだが,その原因は町が始めた水道事業での収入を優先させる為,昔から住民が大切に使ってきた井戸を廃棄させたからだ,と土地の古老は嘆く.行政ミスの最たる物だと言えよう.

この時も厳しい渇水が続いていたから各地で「雨乞い行事」が続いていた.そのせいか?6月26日に,厚い雨雲に覆われた九州上空を広く飛行した私は,雨乞いを通りすぎた不吉な予感がしたのだが,その予想通り,夜から激しい雨になった.私は各部隊に「災害派遣準備」を伝達し,土嚢やスコップなど,器材集積と,車の整備、隊員の割り振りを急がせた.
6月29日金曜日,この日は早朝からバケツをひっくり返したような豪雨が続き,ついに行橋市役所から災害派遣要請が来た.市内を流れる今川と祓川が氾濫したのである.準備が整っていた部隊は直ちに出動したが,渋滞した道路通行の「優先権」が無い.行橋署に緊急車両として指定してもらう事にして,トラックの荷台に「災害派遣中」と大書した垂れ幕を掲げさせたが,立ち往生しているトラックなど皆が協力してくれたので「優先権」は確保できた.
福岡県庁から直接電話が来たので,このラインをホットライン化し,常時連絡を取り合う事にした.たまたま私が福岡の地元高校卒であった事が幸いして,県の部長が「博多弁」でまくし立てるが,意思疎通は非常に旨くいった.

  • 軒下まで漬かった民家から救助要請が来るがボートが無い.芦屋基地からヘリコプターで運ばせたが,今度は「着陸場」が無い.市役所に連絡して駐車場を指定したが,数台の車が放置されていて危険である.直ちに誘導係の隊員に発煙筒と通信機を持たせて現場に派遣したが、ヘリが上空に来ると今度は「野次馬」が集まってくる.これを「排除」する権限も自衛隊には無い.しかし,「超法規」で排除し,13個の大型ボートを確保した.ヘリのパイロットの卓越した技量と,現場指揮官の「臨機応変な」対応が無かったら不可能だったであろう.

届いたボートは直ちに浸水家屋周辺に運ばれて,老人や病人の救出に大活躍した.この災害派遣は,7月3日まで5日間,休むことなく継続した.普段は航空機整備を仕事にしている隊員達が土嚢を担ぎ,操縦桿を持つパイロット達がスコップを持って大健闘した.この地域は本来ならば陸上自衛隊の守備範囲なのだが、丁度演習に出かけていて不在だったから、災害派遣を専門にしない「空自」が,延べ1000人を派遣して大々的に活動した事を知った当時の亀井福岡県知事は感動した.

  • 現場報告で気になったのは,「危険だから避難するように」勧告しても,殆どの市民がそれに従わない、と言う事であった.

水は急激に増水する.隊員達が移動した後,家屋に浸水するや,避難勧告を無視した住民が「助けてくれ」と大騒ぎする.やむを得ず隊員が引きかえして見ると,既に家屋は水没状態で,逃げ遅れた住民は家の中,声だけ「助けてー」と聞こえる.中に入ってみると,座敷にテーブルを置き,その上にイスを置いて首に風呂敷包みを巻いて老人が座っている。
背負って脱出しようとすると,玄関軒下は30センチくらいしか隙間が無い.老人が息が出来ないと困るので,背負った隊員は手前で水中に潜り,老人の首だけ出すようにして戸外に出る.
「勧告した時に素直に従っていてくれれば,こんな苦労はしないで済んだのに…」というのが隊員の率直な感想だったが,汲み取り便所から排泄物が流れている中での救出劇、そんな「現場状況」などは,体験した者で無ければ分かるまい。

  • その後警察,県庁,消防などで,その教訓を生かすよう徹底したのだが,人が替わると気分も変わる.空自としては,無線通信機が大量に必要な事,隊員の作業靴は飛行場地区での作業用であって,災害派遣には役に立たないから,陸自のような「半長靴」等のような装備品が必要なことなど、相当数意見具申したのだが,空自の主任務ではないからか?予算が無いからか全く反映されなかった.

それから7年後,日航機墜落事故が発生したが,空自部隊は「旧態依然」とした装備のままで,現場にいち早く駆けつけて懸命に救出活動にあたった.そして多くの隊員達が破片でひざから下を負傷したのであったが,「救出が遅い!」と非難されただけであった.「文句を言う相手が違うじゃないか!」というのが当時苦労した隊員の声であった.
災害は「忘れた頃にやってくる」と先人は教えてくれた.山も川も海も破壊しつづけ,天をも恐れぬ「傲慢さ」が人間の心を蝕み,それが国全体を覆っている.
犠牲になられた方には心からお悔やみ申し上げるが,「明日はわが身」だという事を「街中を絶叫して回っている候補者達」に申し上げておきたい.
ついでに,「憲法9条を守り,平和を守ろう」と叫んでいる候補者にも言っておきたい.我国が戦後60年も「平和」でいられたのが,憲法9条のおかげだったと言うのなら,憲法9条第3項に,「一切の台風,集中豪雨,地震災害を放棄する」,いわば「災害放棄条項」を追加して欲しい.
彼らの理論が正しければ,きっと願いはかない,台風は全て日本列島から逸れて,今回のような大被害は免れるに違いない! それが証明されない限り,私は彼らの「妄言」を一切信じる事は出来ないのである!もっとも彼らとて本気でそう考えている訳ではあるまいが…