軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

中共空軍創設秘話 その3

1、中共空軍創設のための協力を受諾
 中国共産党東北局書記・彭真から、空軍創設を要求された林少佐は、少し考えてから次のように回答する。
「第一に我々を捕虜として扱わないこと。操縦士を育成するのは極めて特殊で些細なことが命の危険に繋がるから、厳格な規律のもとで行うことを保証して欲しい。教官は命令を下し規律を守らせる権利を要求する。このことは捕虜と勝利者の関係では絶対に行えない。教官と学生は師弟の関係でなければならない。学生は教官に服従すべきで、これが出来なければ、教育の仕事はうまくいかない。
第二に、心身の健康を保証しなければ飛行技術は学べない。高空を飛行する人の体力消耗は非常に大きい。栄養が欠乏していては心身の健康を保証することは出来ず、学習任務を達成することは出来ない。又、日本人の食習慣も考えていただきたい。
第三に、同僚に長期間教育することを要求するなら、彼らの生活の諸問題を考えて欲しい。家族があればその生活を保障し、独身のものには結婚を許し、生活を保障して欲しい」
 林少佐は言い終わると後悔したというが、どうしてどうして、実に見事に「飛行教育に必要な要件」を網羅した発言をしている。私も浜松基地で4年4ヶ月もの間、F-86Fによる戦闘機操縦教育を担当した経験があるが、林少佐の言うとおり、飛行教育は「真剣勝負」であって御遊びではない。しかも「捕虜」の身でありながら、「敵軍」であった共産党高級幹部相手に要求したのだから立派なものである。しかし、3人は直ちに次のように回答したという。
「あなたが出された条件は皆当然のことである。若し、飛行教官をするなら当然教官として待遇する。又、我々は日本人が白米が好きなことは知っているので出来るだけ保証する。東北で白米を補給するのは難しいが中国は広いからどこかにあるでしょう。若い人の結婚は、我々八路軍の幹部にも家族はいるので問題はない」
 林少佐は注意深く回答を聞きながら,特に「教官」の部分については感動したという。
伍修權は「今日の話し合いは有意義であった。先生(林少佐)に敬意を表してこの拳銃を記念として贈ります」と言いながら、腰から拳銃(ブローニング)を外すと林少佐に手渡した。
「これは25,000里の長征(蒋介石軍に追われた逃避行)を私と共に歩いた貴重な記念品です」
林少佐は意外なことに体が震え、熱いものがこみ上げてくるのを覚えたという。少佐も一週間前に武装解除で彼らに拳銃を渡したが、今、八路軍の高級参謀が彼に拳銃を贈ってくれたのである。
 村に戻ると少佐は部隊全員を集めて総司令部での話し合いの内容を説明し、皆の意見を求めた。少佐は、部下達の共産党八路軍に対する警戒心には根の深いものがあって、誰も帰国の日を遅らせてまで困難な仕事を請け負うはずは無いと思っていたが、全く彼の心配とは裏腹に、八路軍に参加して空軍創設に協力しようという者が大部分を占めた。
 彼らは、単に飛行機が好きなだけではなく林隊長に対する信頼が厚かったのである。当時多くの日本人が八路軍に入ったが、林飛行隊のように300人以上の旧軍人が集団で入り、途中紆余曲折はあったものの、大勢として所期の目的を完遂できた事例は他に見当たらなかった。部隊長・林少佐の人柄、統率力、的確な判断力などがそうさせたのだといえる。


2、困難を極めた飛行機及び機材集め
 林部隊を中心として東北に八路軍の「瀋陽航空隊」が誕生した。延安から来ていた黄之一、蔡云翔、劉風などと協力して航空隊業務を始めることになり、直ちに飛行機の修理、材料の収集、訓練の準備に取り掛かった。村に駐留していた林部隊は本渓に着き、八路軍と協力し手分けして奉集堡、遼陽、栄口、四平等の飛行場で残置されていた飛行機と機材を集めた。当時、国民党軍は東北に攻撃を開始し戦いが始まっていた。そのため東北民主聯軍総司令部は、瀋陽から撫順に移り、更に佳木栖斯に移動した。その頃には延安から派遣された航空技術要員が集まり、現有の「航空隊」の基礎の上に「航空委員会」を設けて、主任委員には参謀長・伍修權自ら就き、秘書は黄之一、委員には常乾坤、王旧弼、蔡云翔、劉風、林弥一郎少佐が就いた。
 林少佐は1945年12月10日、航空隊を率いて本渓から吉林省通化に移動した。そして1946年1月1日、中国共産党は「東北民主聯軍航空総隊」の成立を宣言する。これこそが後の航空学校の前身であり、総隊長は東北民主聯軍の後方司令官・朱瑞が兼務した。この日、500人の全隊員の前で、朱瑞総隊長は、林弥一郎、常乾坤、白起を副校長に任命する。
 更に1946年3月1日、航空総隊を航空学校と改め、林は参議として専門に教官を担任することになる。しかし、3月3日、国民党軍のB-25爆撃機数機が通化飛行場を爆撃したので、牡丹江に移動することになった。


3、業務開始
 4月中旬、航空学校は牡丹江に移転完了し組織機構が定まった。校長が常乾坤、副校長は白起、服政治委員は黄之一、願跡磊、参議が林弥一郎、教育長は蔡云翔、副教育長が将天然、政治部主任は白兵であった。その下に訓練処、校務処、供給処、「処」の下には「科」があり、その中に「班」が設けられた。教官と整備員は日本人で、器材班と運輸班は日本人と中国人の合同であった。操縦教育を受ける学生は、「班」を「幹部班」「甲班」「乙班」に分け、「幹部班」は高級空軍指導者の養成を目的として設置され、中佐、大佐、少将クラスで30〜40歳代の中から20人が選抜された。このクラスは林少佐を含め6名の教官によって訓練が行われた。1人が4名の学生を教え、日本の九九式高等練習機を使用した。
「甲班」「乙班」は、未来の師長(師団長クラス)と、空中指揮官を養成するもので、「甲班」は15名、「乙班」は20名で、後に中国空軍の多くの指揮官がこの2個班の中から生まれた。「学生班」の中に「機械班」があり、飛行機の整備と修理を学んだが、これは日本人技術者が受け持った。飛行機は主として廃品を集めたため、全て寄せ集めで組み立てられた。このようにして8機の九九式高等練習機を作り、1947年からの飛行訓練が可能になった。又、米国のP-51戦闘機を複座の練習機に改造するため、操縦系統と座席を日本の九九式高等練習機で代用し、重心位置を合わせる努力をして、10数機のP-51練習機を改造した。
 そのため訓練時間を短縮することが出来、通常は九九式で20〜40時間の訓練をした後、P-51の訓練に移ることにされていたが、学生達は何時間もしないうちにP-51の単独飛行ができるようになったという。後に朝鮮戦争が始まると、ソ連空軍からジェット戦闘機(MIG-15)が供与されるが、学生はP-51の経験があったので直ぐにジェットで飛行することが出来、人民解放軍が短期間にミグ戦闘機で米空軍のF-86Fと戦闘出来るようになったのである。中国人学生は林少佐など日本人教官が、困難な状況下で、言葉の壁を乗り越え、飛行教育方法を創造し、中国人学生達を高い水準に導き、短時間で当時世界でも先進的な飛行技術を習得することが出来たのは奇跡であるとみなし、日本の同志はすばらしいと褒め称えた。そして「戦争捕虜」と見ないだけではなく、「革命の同志」と見做すようになったという。                     (続く)