軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

ドラマ「戦場の郵便配達」を見て思うこと

 12月9日土曜日夜9時から11時9分まで、フジテレビが表記のドラマを放映した。クリントイーストウッドの「硫黄島映画」が大評判なので、フジテレビでは彼まで登場した宣伝を朝からしきりに流していたので楽しみに見たが、正直言って落胆した。とてもクリントイーストウッドの作品には及ばない。
 勿論、テレビドラマだから、制作費をかけた映画と比較するのが野暮なのだが、硫黄島の2人の指揮官のうち、クリントイーストウッドが陸軍の栗林中将を取り上げたのに対して、フジテレビは市丸海軍少将に光を当てたから興味を引かれたのである。 しかしながらドキュメンタリー風に構成された筋書きの中の「ドラマ部分」があまりにも“拙劣”で、折角の物語の雰囲気をぶち壊していた。撮影のために復元されたという1式陸攻の精密さもさることながら、生き残りの方々の指導もあったようだから期待していたのだが、演ずる役者に全く「軍事的素養」がないので、場違いな行動や表現が多く物語の内容を“軽く”していた。ドラマそのものの筋書きはいいのだから、何故「ドキュメンタリー作品」に徹底しなかったのかと悔やまれる。
 実戦記録フィルムと、200通にも上る残された手紙、ご遺族などの当時の思い出などで構成したほうがよほど見るものの胸を打ったことだろう。
 役者たちは精一杯演じていたのだろうが、所詮は「軍事否定教育」環境で育ってきた現代の若者たちに過酷な戦場での兵士たちの心境を理解させることは無理で、“想像の域”を出ていなかった。とりわけ機上で、機長たる海軍少尉がやたらに“絶叫”したり、少年兵の自決現場を見た海軍少佐が“絶叫”するシーンには、馴染めなかった。飛行気乗りの大ベテランである市丸海軍少将が、1式陸攻を「優秀な戦闘機だ」と言った事はご愛嬌にしても、飛行場建設に携わる兵士たちの動きも、どこか「舞台役者」のようで、鍬や鶴嘴を振り下ろすシーンも、影絵芝居のような非現実的なもので臨場感が感じられなかった。これではとてもクリントイーストウッド監督の作品と肩を並べられるものではない。ドラマのコピーは彼に送らないほうがいいと思う。
 日本の戦争映画がどう見ても「軽く」臨場感に欠けるのは、戦後60年間戦争体験がないとか、徴兵制がなく俳優自身に軍事常識が欠けているとか、反戦映画の影響が大だとか、役者がいないだとか色々いわれているが、やはり「戦争」を直視しないで来た事に起因するのだと思う。直視しないということは、それだけ「想像」が幅を利かせることであり、つまり本で読んだ知識だとか、話を聞いた体験だとかに限られる。役者たちは精一杯努力したのだろうが、やはりディレクターの実力がそのまま作品には表れるので仕方がないというべきだろう。
 ディレクターには、戦時中の映画、たとえば「加藤隼戦闘機隊」「麦と兵隊」などの作品をよく研究してほしかった。撮影技術が進んでいなかったとはいえ、当時の作品には真に迫ったシーンが多々見られる。
 市丸少将の妻を演じた(確か手塚理美?)だけは、淡々と演じていたから、むしろ役にはまっていたと思う。男優のほうは力みすぎであったし、戦争を悲惨なものと描くことに力が入りすぎていたように思う。クリントイーストウッドは、戦争の実相を淡々と描き、見る者に判断を任せたところが観衆の心を打ったのである。
 このドラマを見ていて私は、現在の我が国で語られている「防衛論議」も、実はこの程度のものなのではないのか?と感じた。つまり、わが国民は、軍事、戦争の実態を「バーチャルの世界」でしか考えていないのでは?と思ったのである。
豊かな時代を生きる日本国民にとっては、戦争は所詮はドラマの一ページ、対岸の火事にしか過ぎないのであろう。

 ところで台湾の台北高雄市長選挙が終わった。その日の夜、台湾の元教授から悲観的な電話がかかって来た。台北は国民党の圧倒的な支配下にあるから仕方ないとしても、民進党の地盤である高雄がわずか1000票差で辛勝したというので「2008年は最大の危機です…」と教授はため息をついた。
 私は2008年危機説を唱えて久しいが、ついに現実のものとして動き出したようだ。軍事の世界を「バーチャル」で考えることほど恐ろしいものはない。現実化しつつある「今そこにある危機」を、ドラマを演じた青年たちと同じ世代の日本人にどう理解させるか? 難しい問題だが気負っても仕方がない。しかし残された期間は後一年余、そうなってからでは遅いのだが…