軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

民放連「自浄」を前面?

あるある大辞典」に端を発した関西テレビの不祥事件は、次々に不祥事が明るみに出ることになって、民放連も相当あわてているようだ。関西テレビを「除名」したそうだが、次はどこだろう。
 26日の産経新聞一面トップに「日テレ集団暴走誘発?」という記事が出たが、JR前橋駅前周辺の集団暴走報道は、実は日テレの系列会社スタッフが、「主役」となるべき少年らに撮影を予告したため、それに応えた?少年らが改造バイク数十台で集団暴走したのだという。そのタイトルが「NEWSリアルタイム」というから噴飯物である。日テレは、放送終了直前に「これはフィクションであり、実在の団体とは関係ありません」と断ればよかったろうに・・・。
 私は「マスコミ界の大掃除が始まる!」と以前書いたが、予想以上のテンポで進展しつつあるのは喜ばしい。テレビ報道では、昔NHKが「シベリア鉄道」という“ドキュメンタリー番組”を流したが、当時のソ連に詳しい専門家達が、あのような撮影にはKGBの許可が必要で、撮影範囲の制限は勿論、必ず「担当者」が細かく指示している筈だ、と指摘した。勿論列車内の“風景”も、全てはヤラセであり、食堂車のソ連人乗客たちも実はその筋が用意した“当日限り”の乗客だったことが判明して顰蹙を買ったことがあったが、ドキュメンタリー番組も相当に怪しいことを国民は考慮しておく必要がある。事実、先日の「チベット高原鉄道開通」報道も、中国政府の指示通りに報道しているという指摘が、インターネット上に流れている。こうなると、国民は「ニュース」の何を信じればいいか迷うことになる。 ニュースばかりか、時代考証も怪しい過去の「歴史番組」も、徹底的に検証してみる必要があろう。「そのとき歴史が動いた」という番組もそうである。

 今私は書斎の大整理中だと昨日書いたが、出てくる資料の全てが実に貴重で、全く整理にならないで困っている。時間があれば現実問題と比較して面白い論文が書けるだろうと思う。例えば、こんな具合にである。

<平成19年(2007)3月28日付産経新聞(30面)>
「元毎日記者の請求棄却」
 日米の沖縄返還協定に関する機密扱いの公電を外務省女性事務官から入手したとして、国家公務員法違反で有罪が確定した元毎日新聞記者の西山太吉さん(75)が、「沖縄返還に関する日米の密約が明らかになり、違法な起訴だったことも明らかになった」などとして、国に3300万円の損害賠償と謝罪を求めた訴訟の判決が27日、東京地裁であり、加藤健一裁判長は、西山さんの訴えを退けた。密約の存在は触れなかった(以下略)。

<昭和47年(1972)4月29日号週刊新潮
「特集=泥にまみれた毎日新聞大戦争終戦処理」
(リード)起訴状によれば、外務省機密漏洩事件の西山太吉記者は、蓮見喜久子事務官と「ひそかに情を通じ」とある。やはりフトキッツァンのやり方は醜かった。キタナイキタナイ取材方法である。臭気プンプンである。
 毎日新聞はどうにもカッコ悪くなった。もうニューヨーク・タイムス気取りはできない。編集局長は更迭になった。けれども、まだ“知る権利”でたたかうという旗は降ろさない。――『美しい日本の美しくない日本人』の続編をお送りする。
 特集だけあって5ページにも及ぶ詳細な内容だが、既に黄ばんだ紙面からは、当時の新聞界のあわてぶりが伺えて面白い。(写真)
毎日新聞だけではない。朝日新聞にもこの際、一言もの申したい。国会詰めの某記者は『ウカツにも起訴状の“情を通じ”でクラブの記者一同ガクゼンさ。オレたちは他人の色恋の弁護をするのに新聞の第一面を使っていたのかという自己嫌悪にとらわれた』といっていたが、毎日の“知る権利”に対して急速に熱が冷めてしまったかのごとく見える他紙の中で、ただ一紙、依然として“知る権利”の論陣を張っているのが朝日新聞。その朝日は、この西山太吉記者の裁判を、『いわば民主主義の試金石とも言うべき裁判となろう』などとも書いているのである。冗談じゃない!といいたい。しからば朝日は、もし仮にフトキッツァンこと西山記者が裁判で有罪と決まったとき、日本の民主主義は踏みにじられたとでもお考えになるのだろうか。たかがフトキッツァンふぜいのおかげで、日本の民主主義がどうのこうのということになってたまるか、である。それとも、そういうのは苔むした楽観主義で、フトキッツァン裁判の成り行きに不安の目を注いでいるのこそ、シャープなジャーナリズムなのであるか。どうしてもそうは思えない。第一、何でもすぐ『民主主義の危機』を持ち出すのは、十年ほど前、いわゆる進歩的文化人の間にハヤった手口で、昨今はそれらの進歩的文化人でさえ、ややうんざりしているらしくもあるのに・・・。」
 中見出しがまた結構面白い。「西山記者の『情の通じ』方」「官民合わせて“低次元”競争」「『命令されたような形』とは=(女性事務官が記者会見で『西山記者の取材方法』について問われた際、『命令されたような形でした』と答え、西山記者が『脅迫的な行為』を取ったともされる事)」「西山記者は処分されなかった=(本人は休職になっただけで、処分されたのは中谷不二男編集局長だけ)」「行き着くところは“革命”?=(毎日があくまで戦う決意を固めたことについて週刊新潮は、かくなる上は、毎日はフトキッツァンと一蓮托生、最後まで戦うべし。その戦いはもう“革命”に近いものだということも、承知の上でしょうナ、と揶揄)」

 こうして「過去の記録資料」を振り返ると興味津々である。今も昔もさほど変わらないが、週刊新潮の健闘振りと、指摘の鋭さが目立っている。
 僅かというべきか、すでにというべきか、35年前の出来事だが、殆どの日本人は「事件の内容」を忘れているに違いない。だから今朝の産経新聞の記事を読んでも一向に理解できなかったに違いない。忘却は人間に与えられた“特権”である。しかし、たまには振り返ってみるのもいいことだ。
 ところで朝日新聞の70年前の記事なんかは、今時の日本人には信じられない内容なのではなかろうか?勿論中国人にとっても・・・。当時の朝日新聞が、『暴支鷹懲』と息巻いていた事を知った中国人達の反応が見たいものである。
 もっとも「暴支鷹懲」という言葉を知っている日本人も殆どいないだろうが・・・。