軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

天は無慈悲か?

 昨日午後は、横浜で日本世論の会神奈川支部主催の講演会で講話してきた。与えられた題は「日本の軍事戦略」であったが、この国には“戦略はない”と理解しているので、無いことは話せないから、いつもの2008年危機を中心に、我が国を取り巻く情勢についたお話した。
 会場を埋め尽くしたのは、社会的に功なり遂げたご高齢な方々が多かったから聊か反応が気になったが、まじめで熱意ある質問が続いて、質疑応答だけで50分もオーバーする有様だった。中には、八丈島からわざわざ駆けつけてこられた若い小学校教師も居られて、第一便が欠航して遅れたが質疑応答が長引いていたので最後に間に合った、といわれたのには恐れ入った。懇親会は20名を超える方々で席が埋まったが、この国を全うな形にしたい、という熱意に満ちていたから気分爽快、医者から「節酒」を申し渡されていることをすっかり忘れて、実に愉快なひと時を過ごしてきた。
 このような国を思う団体は確実に増えている。日本精神を忘れまいとし、最後の砦だと頼りにされている自衛隊が、機密漏えい事件などで「警察の手入れ」を受けるような“裏切り行為”を引き起こしてはならない、と痛感した。現役諸官の自覚をお願いしたい。

 ところで、長久手市の立てこもり事件のお粗末な対応振りには批判が相次いでいるようだ。このブログでも、草場正太郎氏のコメントには考えさせられたが、人事を尽くさずして「天命」を待っても所詮は無駄だということだろうか?。
 八甲田山「死の行軍」で、自然の猛威に晒され行軍を阻まれた青森第5連隊の行軍指揮官、神成文吉歩兵大尉は、「天はわれを見捨てたもうたか!」と悲痛な叫びを上げる。日露戦争に備えた厳寒地訓練で、貴重な199名の部下を失った若き指揮官ならずとも、その無念は十分に察せられるが、天は時に無慈悲である。
 今回も、人間の屑とでも言うべき(屑とは“人権無視”発言だ、差別だ!と一部識者は抗議するか?ならば「人間の皮を被った獣」と言い換えよう)キチガイが「保護」されて、将来有望で、国民が期待していた若き機動隊員が、愛する家族と悲惨な別れを強要された。
 私には彼が特攻隊員の姿と重なって見える。国のため、愛する人のために爆弾もろとも敵艦に体当たりして散華して行った若き青年たちの心情を思いやることもなく、「死者に口なし」を良いことに、靖国神社への首相参拝に反対する一部“日本国民”の裏切りを天が許すはずはない。しかし、天は何故に「懸命に生きるまじめな国民」を死におもむかせ、生きる価値を認められない輩を生かし続けるのか?草場氏ならずとも誰でも不思議に思うに違いない。
 何ゆえ残された人生で「償い」などするはずがない輩を、しかも「国費」で保護しなければならぬのか?生きることこそ“苦しみ”だからか?
「一将功なりて万骨を枯らせた本人は、後藤田正晴ですね」というコメントがあったが、亀井静香も、宮内庁長官だった富田何がしもそうではなかったか?
 浅間山荘事件で殉職した警察官のご遺族のその後はどうだったのか?
 私はかって百里基地勤務のとき、東京に行き来する機会を捉えて、成田闘争で殉職した警察官を祭る、小さな慰霊碑にせめてもの感謝の気持ちを捧げたことがある。それは私のような戦闘機のりの精神と相通ずるものがあったからである。あの殉職警察官のご遺族もまたどうしておられることだろうか。
 そういう意味では、天はまことに無慈悲である。我々凡人には計り知れない「意図」が潜んでいるとしか思えない。しかし、いずれ生きている人間はすべて必ず黄泉の世界に行かねばならない。そこで我々は何を見るのか?
 一度しかない人生を精一杯生き抜いてきたつもりだが、やはり遣り残したものが多すぎて、余計な活動に明け暮れている私だが、すべての評価は「黄泉の世界」で判定されると信じている。しかし、もしも「あの世」でさえも、理不尽な(私の価値基準から)ことが横行しているのであれば、三途の川を泳ぎ戻って来て、この世で徹底的に「報復」をしてやりたい、と思っているのだが、天は、少なくともそうする必要がない処置を考えていて下さると信じている。信じることは「ただ」だからである。

 それにしても今の日本社会は、草場氏のように人生を真剣に捉えることが「滑稽」なことでもあるかの様に誤解されすぎている。志半ばの23歳の若さで、愛する妻と幼子を残してこの世を去った林巡査部長と、何ら社会に貢献しなかったばかりか、社会に害毒を流し続けた50歳の男との比較は、故福田総理でさえも「地球より重い平等な命」だとは評価しまい。
 この事象一つ捉えてみても、「天は退廃に溺れる大和民族の末裔を見捨てつつある」気がしてならない。