軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

コメントを読んで

 先日都心へ向かう電車の中に、「シルバーシート」に座って携帯を操作している若者と中年サラリーマンがいた。私はその前の席に座って読書していたのだが、突然「携帯切って!切って!ハイ!切りなさい!」という女性の声がしたので顔を上げると、初老のご婦人が二人の前に立って指差しながら注意していた。回りに一瞬「緊張が走った」が二人は素直に携帯をポケットにしまったので事は収まった。暴力沙汰?になったら“私の出番か!”と一瞬構えたが「平和的に解決」したのでほっとした!典型的な「見てみぬ振り」状態であったが、女性の勇気に感心した。
 
 久しぶりに今日は時間がとれたので、寄せられたコメントに目を通したが、色々と考えさせられた。
 私は「労働組合」という名前にどうも抵抗がある。それは戦後小学生になって、教科書から「軍事」的要素をすべて墨で消す様に指導され、「級長」という呼び名を“労働組合”並みに「学級委員長」「書記」などと変更させられた世代だからかもしれない。当時は先生方の方が戸惑っていたことを覚えているが、それでも旧軍人や、引き上げを体験した先生方が多く指導は毅然としていた。まだまだ日本精神は失われていなかったのである。
 私が5年生だったとき、貞明皇太后崩御され全校生徒が校庭に集合し、朝礼で黙祷を捧げたていた時のこと、食糧事情が悪かったこともあって、誰かが列中で「おなら」をしたらしく忍び笑いが輪の様に広がった。
 黙祷終了後各教室に戻ったが先生が来ない。小学生だから「ワイワイ」騒いでいたところ、急に先生が入ってきて、委員長の「起立!」という号令が間に合わなかった。
 怖い顔をした先生は「今日黙祷の時に笑ったものは手を挙げよ」と言い、素直に手を挙げた生徒を前に並ばせて、「国のお母様である貞明皇太后陛下が御隠れになった悲しい時に笑うとは何事だ!」と言ってビンタを見舞った。
今ならマスコミを賑わす一大事件に発展したことだろうが、当時は子供ながら理解していたものであった。
 そんな頃から「多数決の原理」とやらを強調され、学級委員会は労働争議並みの雰囲気が漂い、「発言力?」ある者の独壇場となった。「議長」はそれを統制しなければならないのだが、不慣れでシャイな日本人には自ら発言するものなどいなかった。ましてや小学生なのだから殆どいなかった。だから議長が「指名」して発言を強要?することになる。小学低学年の時はまだそれでもよかったが、上級生になるに従って発言力を行使する者の横暴が目立つようになり、学級委員会は個人攻撃の場となった。
 当時は物不足だったから、学用品はもとより、草履や上履きが良く無くなった。その犯人探しが始まるのである。そしてそのターゲットになるのが「弱者」であった。つまり「発言力」に乏しい者である。
 登校拒否問題や暴力沙汰はその頃からあったのだが、当時は先生が家庭訪問して親を説得して連れ戻してきて、教室で全員にそのような「多数決の行使」がいかに間違ったものであるかを諄々と説いたものであった。つまり、責任感ある教師の行動力によって「取り違えられた戦後民主主義」は修正されていたのである。
「組合」と言えば「日教組」、日教組と言えば初代委員長のM氏を思い出すが、確か彼は樺太豊原に駐屯していた陸軍憲兵隊の中尉だった筈である。
 終戦情報とソ連情報を入手しやすい立場にあった彼は、終戦直前、自ら札幌の司令部に“出張”し、上司から「すぐ豊原に帰る様」説得されたにもかかわらず帰隊せず、ソ連軍侵入、やがて終戦となった樺太に残った同僚達はシベリアに送られたが、彼はそのまま復員したと聞いたことがある。
 そのような無責任な男が“委員長”になった組合を私は信じられなかったのであった。確か彼は略歴上は「陸軍中尉」とだけ公表していたはずだが、あるとき私が「旧陸軍にこんな呼称は無い。必ず<歩兵中尉>とか<砲兵少佐>という言葉がつく」と指摘したところ、ある方が「憲兵」だったと教えてくれた。彼は憲兵隊を<鬼>のように忌み嫌っていた日教組という組織内では「経歴詐称?」していたのであろう。やがてそれがばれた?らしく彼は委員長を辞した筈である。
 社会党の某大物も、かっては某大工場の職員だったそうだが、父が勤める発電所労働争議を持ちかけてきたとき、父が「君のやり方は日本の文化伝統にそぐわない」と説得すると、彼は自ら「弁が立ったので担ぎ上げられただけです」と父にこっそり語ったという。
 テレビに彼が登場すると、父は生前「彼も出世したものだ」といい、裏話を教えてくれたものである。そんな少年時代を過ごしていたから、個人的にはどうにもこの組織になじめなかったのである。

 <tazaemon>氏は私のブログに『ペシミスティック』な雰囲気が強くなり出したことを心配してくれたが、<ペコリ>氏が書いたように、安倍政権が身体を張って対抗している<拉致問題>に関して、最も重要なポジションにある部署から、相手方に情報が筒抜けだったことは、事実何十人もの同胞が30年以上も拉致されている現状を見るとき、これほどの裏切り行為はあるまい、と思う。実際に「同胞の命」がかかっているのであるから、とてもオプティミスティックにはなっておられないではないか?
西村真悟氏が関連質問書を提出したが、「回答は差し控えられ」ていて、全く答えになっていないという。
 要するに、今の日本社会は、混んだ車内で携帯電話を切るように指導したご婦人のような勇気ある行動を取る者はまれで、“我関せず”の傾向が強いのである。
 たまたま今朝の報道2001で石原氏や桜井氏たちが慨嘆していたが、環境問題一つを取ってみても、政府の指導力はもとより、個人の意識もきわめて低い。勿論、我が国の企業家達の努力で、世界一の技術力があることは極めて誇らしいのだが、その上に立つ政治家達の行動を見ていると、政府・与党=経営者、野党=労働者という図式にしか私には見えない。つまり、国会でも「学級委員会」並みの低俗な「労働争議」がまかり通っているように見えるのである。
 また今朝のTBS?テレビで、2004年に世間を震撼させた佐世保市立大久保小学校で起きた「カッターナイフ殺人事件」で、事前に襲われた?男子生徒が「刃が出ていなかった」ので先生に報告しなかったところ、校長が記者会見で「些細なことも報告するよう指導していた」といったのを見て、彼は「自分が報告していたら彼女は殺されなかった」と思い込んで悩んでいたという。ところが実はそれを見ていた同級生が担任に報告し、校長も知っていたにもかかわらず、この女性校長が「報告が無かったから」とウソの発表をしたというのだから、あきれてものも言えない。小学校長ともあろうものが、子供の将来の人生を考慮することなく、自分本位で平気でうそをつく無責任さ。その場での言い逃れ、保身に汲々としているようでは、とても子供達を教育する資格なんぞ微塵も無い「不適格者」と言うしかあるまい。この校長の行為は、ある意味で社保庁の怠慢より罪が重いというべきだろう。
 たしかに<tazaemonn>氏が忠告してくれたように、このところ私の身の回りにはこんな事象が目に付くばかりで、<オプティミスト>になるだけの十分条件が見当たらないからブログを読んだ読者の方々も、ついそんな雰囲気に偏るのだと思う。何とか「明るい話」を特集したい?ものだが、せめて、今後は乾坤一擲、若い安倍首相に、外野の野次に惑わされること無く、自ら信ずる「国づくり施策」を「強行?」してもらい、我々に“明るい未来”を期待させて欲しいものである。