軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

海軍予備学生増加採用の経緯(その2)

(承前)
 そこで私は、ある日当時軍令部が要望していた将来の航空部隊編成計画案について、今手持ちの搭乗員と、その将来における増加予想数とを綿密に調べてみると、そこには重大な欠陥があることに気づいたのでありました。
 それは搭乗員は全般に不足することになっているが、特に飛行隊の中堅幹部である大・中・少尉級即ち飛行隊の中隊長級・小隊長級に著しい不足がありました。
 即ち、実際に使い得る員数は、部隊編成のために必要とする員数の約三割程度に過ぎないというような、心細い惨憺たる状況でありました。
 それをアメリカの状況と対比しますると、彼は前述のように大東亜戦争開始前の昭和15年半ばに、既に将来戦を予想して膨大な飛行機の増産計画と、これに見合うところの搭乗員の養成計画を立てて、一意その実現に邁進していたのであります。これではわが方の二段作戦以後の、彼我の航空戦力に大きな差が現れてくることは確実で、わが方はいかに飛行機を造っても、これに配する搭乗員、特に士官搭乗員がいないというような悲しい状況に陥ることが明らかでありました。私はこのような状態に陥るのを少しでも改善しようと、搭乗員の増勢計画に遅まきながら取り組もうと決意したのであります。
 そうして状況が最も悪い初級士官搭乗員の養成には、今から兵学校生徒を大量に募集してその卒業を待っていたのでは時機を失し、今の戦争に間に合わなくなることは殆ど確実でありました。
 そこでアメリカが実施しているように、日本でも現在の一般の大学や高等専門学校の卒業生達を大量に採用して、これを海軍航空機搭乗員に養成しようとするいわゆる、飛行予備学生・生徒の採用を決意するに至ったのであります。
 この予備学生制度は従来からもあったが、その採用規模は毎年5、60名、多い年でも百数十名位という極めて僅かなものでありました。それをこのたび一挙に三千名採用することにして、案を立てて上司の許可を得たのでありますが、さて、この案で海軍省や航空本部の関係方面との交渉の結果は思わしいものではなく、どこでも反対されるという仕末でした。それでも軍令部方面は大体に賛成してくれました。
 そこで、彼らの反対する主な理由は、今にして思えば甚だ滑稽でまた皆様にも失礼かと存じますが、彼らの言うには『長年に亘って不規律な生活を送ってきた学生達を、一度に三千名も大量に採用して、短期の教育で士官搭乗員を作ることは、精鋭を誇ってきたわが海軍航空に害毒を与えて、これを駄目にする』というような主旨でありました。
 これに対して私は、アメリカ青年学徒に出来ることが、日本の学徒に出来ない筈がない。これからの戦争は、これら日米両国の青年達の空の決戦によって、勝敗が決まるのであると反論したのであります。
 この状況を見て時の人事局長・中沢祐少将(兵43期)は、予備学生三千名採用の案は是非実現したいと申され、人事局第3課長の小手川邦彦中佐(兵51期)にも、その実現に努力するように指示されたのでありました。
 小手川中佐は、外面は物柔らかな温厚な紳士でありましたが、内面は芯の極めて強い人であって、私が交渉で行き詰っていた省内各部の反対を根気強く説得し、また陸軍省方面からの反対をも抑えて予備学生・予備生徒の大量採用に漕ぎつけたのであります。
 勿論この間には戦局の変化もあり、特にガダルカナル方面の戦勢が不利となるにつれて、各部の反対の声も次第に収まったことも予備学生、予備生徒の大量採用を容易にしたことも事実でありますが、何分この間の論争に数ヶ月を空費しましたことは残念でした。
 そうして採用が一旦決まってみると、今度は航空以外の分野即ち艦艇、陸戦、防空、防備などの方面からも予備学生出身者が欲しいとの要望が出てきたこともあり、応募した人たちの素質がよく、その数も多かったというような関係もあって、当初の三千名の採用の予定が実際に採用した員数は、第13期飛行予備学生だけでも五千名に達したという結果になりました。
 これらの人たちは、昭和18年6月ごろに採用試験があり、同年9月中旬には土浦、三重の両練習航空隊に入隊して訓練を始めることになりましたが、その後のことは皆様が十分にご承知のことと存じます。ただ一言申し上げたいことは、昭和20年6月ごろに某陸攻航空隊の司令が、海軍省内で私に向かって『今や私の隊の搭乗員の主力は13期予備学生の出身者達で占められている。彼らを大量採用されたことは、実に有意義なことであった』と申されたことは今でも印象に深く刻み込まれております。
 しかしながら、これらの予備学生・予備生徒の採用もアメリカ搭乗員の大量養成を始めた時期に比べるときには約3ヵ年も遅れを取っており、これが日本海軍航空のその後の退勢に大きく響いてくるのでした。
 日本は飛行機の生産が、アメリカのそれに及ばなかったことは已むを得ないことではありましたが、それにも増して搭乗員の養成に遅れを取るに至ったのであります。
 これがために、皆様の大変な御努力にもかかわらず、戦局の頽勢を食い止めることが出来なかった原因だろうと思われて、今から考えても残念でなりません。
 また今夕この集まりに参加していただくことの出来ない多数の戦没された方々には、心から哀悼の意を表わしまして、私の話を終わります。(講話資料終わり)


「特攻の創始者」にされた第一航空艦隊司令長官・大西中将が「特攻隊のような戦法は、いかに国家のためとか、負けられぬとか言おうと邪道であり、見事な良い若者を特攻で殺した自分は救われない。無間地獄に落ちるさ」と言っていたことは案外知られていない。
 豊田副武回想録には大西中将が「中には単独飛行がやっとという搭乗員がたくさんいる。成果を挙げるには他に方法はない」と揺れ動く心のうちを語っていたとある。
 ところで、寺井中佐の上司であった中澤人事局長の回想記(海軍中将・中澤祐:昭和54年原書房刊)に次のようにある。
「私は人事局長に就任(昭和17年12月10日)するまで、主として作戦、用兵の職務に終始し、直接軍政に参与したことはなかった。しかし国防上、人的軍備の重要性については、かねてより意見を持っており、昭和九年ないし十一年、軍令部第一課主席部員のとき、海軍兵学校、機関学校、経理学校生徒採用員数の飛躍的増加を海軍省に要求したが容れられず、わが海軍の人事行政が日露戦争当時と少しも変わっておらないことを知っていた。
 私は昭和七、八年米国駐在中、米国海軍の人事制度について研究したので、次記事項の実施を必要と認め、これを推進することにした」として7項目掲げられているが、その中に『航空搭乗員の増加、特に士官搭乗員の飛躍的増加。米国では士官搭乗員が85%であるのに対し日本は15%』とある。8月に人事局員となり、各種抵抗にあって頓挫していた寺井中佐の「操縦者増員計画」は、12月に着任した良き理解者・中澤局長によって勢いを得たことが分かる。しかし時既に遅かったのである。
 中澤中将の回想記には、下士官兵の増員についても「明治時代より徴兵令は陸軍省主管だったので、海軍の徴兵員数は毎年、陸軍省の承認の下に割り当てられ、その他は志願兵制度に依存していた」から、「これでは到底海軍作戦の要求には応じ得ないので、私は人事局長に就任するや直ちに主務局員に命じて海軍としての所要員数を算出させ、主務局である海軍省軍務局を経て陸軍省に要求の手続きを取った」が、陸軍側は応じなかったとある。
 我が国・軍部が、戦の準備も整わないまま、対米戦に踏み込んでいった有様が彷彿とする。要するに「対米戦」は、陸海軍共に全く心構えが出来ていなかったのであり、他方米国側は、中国大陸での“義勇軍”派遣時点から、既に十分対日戦を意識していたのである。これでは勝てる筈がない。しかし、4年間も全世界を相手に独り戦い続けたのだから、当時のわが国民の「精神力?」の凄まじさと団結心には頭が下がる。
 そんな悪条件下でも黙々と戦って散華していった多くの英霊達が待っている『靖国神社』に、時の首相が堂々と参拝しないのだから、『後に続く者』が出ようはずはなかろう。国が乱れる筈である。

「せめてもう少し早く増員計画を実施することができていたら、彼らにも十分な働き場所が与えられていた筈だが、それが出来なかったことが残念だ」というのが寺井の口癖で、後年脳梗塞で身体の自由を失うまでは、毎年8月15日になると世田谷観音(特攻観音)に一人静かにお参りしていたのであった。
 パイロットの養成には今でも最小限2年はかかる。将来有事を想定して余裕を持って育成しておかねば、いざという時に役に立たないという例である。現在のパイロット養成計画にもこの教訓が生かされていることを祈りたい・・・