軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

昭和の生き証人・瀬島龍三氏死去

 幹部学校普通課程に入校していた1等空尉時代、陸士51期の戦史教官から色々と御指導を受けたことがある。小・中学生時代から「戦記もの」が大好きで、それが「戦史」に収斂し始めたのはこの時からだったかと思う。
 戦史教官室に入り浸り、戦史史料を乱読していた私に、「君が関心を持って調べている戦例の真実が、その資料にすべて書かれていると思ってはならない。どうも納得出来ない点については、その作戦にかかわった“当事者”が今も存命だから書かれていないということが多い。例えば真珠湾作戦のような、圧倒的大勝利に終わったものは、当時のマスコミを含めておだて挙げ、根掘り葉掘り書くから資料はそろっていることが多いが、失敗した作戦については、関係者が残っている場合には『そっとして触れない』という日本独自の“慣習”があるものだ。だから君が一生懸命に研究しても、疑問点が一向に払拭できないのだ。やがて時が経ち、関係者は去っていく。その時点で事の真相は明らかになるだろう。だから、疑問点については常に頭の隅に叩き込んでおいて、やがて出てくる『新資料』と突き合わせる必要がある。米国は、敗戦についての査問は厳格で、時に厳しい決定を下すが、だからといって彼らも『負けたこと』を正直に公表するとは限らない。例えば神風特攻作戦である。沖縄作戦で、猛烈な攻撃を受けた彼らは恐怖に取り付かれ、発狂する兵隊が多かったため、米国内で『厭戦気分』が蔓延しないように苦慮した。
 そこでマスコミには『神風機は当初から体当たりを意図した必死作戦だ』とは書かせず、被弾した日本軍機が覚悟して体当たりをしているに過ぎない、我軍にも例はある、と強弁させ窮地を切り抜けた。
 こんなことはどこにでもあることだが、手痛い敗戦を喰らった日本としては、真摯に作戦の失敗を研究し、次の世代が再び同じ過ちを繰り返さないように、君ら防大出の幹部がしっかり研究しておかねばならない」と懇々と諭されたものであった。
 その上、たまたま義父が旧海軍出身だったから、当時の体験談を根掘り葉掘り聞いたものである。
 しかし、旧軍人には「敗軍の将、兵を語らず」の雰囲気が強かったことは否めなかった。そして『仲間はもとより、脚光を浴びている先輩方』の悪口は一切言わない躾?が徹底していた様に思う。
 例えば、開戦時にワシントンの米国大使館付き武官補佐官であった義父は、12月7日日曜日の朝9時ごろ、軍人としての動物的勘から大使館に出勤したのだが、ゲートは閉まっていて、新聞受けには新聞や郵便物が突っ込まれたままであり、牛乳瓶も配達されたまま、手付かずだったという。
 敷地内の芝生の上に最も重要な電報の束(日米交渉にかかわる第14部)が転がっているのを見つけた義父は、本館の呼び鈴を押したが誰も出てこない。「これだから野村大使は苦労されるのだ!」と怒りを覚えつつ、ゲートを乗り越えて海軍武官事務所の書記に「直ちに大使館員に伝えるよう」指示して無線やラジオがある通信室に入り、ラジオ放送に耳を澄ませた。そして突然「ハワイ空襲」が報じられるのを聞くことになるのだが、これら一連の「開戦秘話」は、しばらく表に出ることはなかった。しかし海軍の先輩がこれを著書に書いて公になる。
 たまたまこの先輩が幹部学校の講義にこられてその“秘話”を述べられたのだが、帰宅して義父に「今日S氏が第14部の電報の束が芝生に落ちていたので私が見つけて拾って届けた」と話されたが、「電報を見つけたのはS氏だったのですか?」と聞いた。義父はきょとん?としたが「Sさんがそう言った?変だなあ、彼はまだ出勤していなかった筈、私がハワイ放送を聴いて2階の事務所に降りてきたときは確かにいたが・・・」という。
「ではS氏は親父さんの手柄を横取りした?ことになりますね」と聞くと、「何かの勘違いだろう」といって取り合わなかった。そんな義父は決して同僚先輩の悪口は言わなかったが尊敬する方は心から褒めるという特徴があった。反面尊敬出来ない方の評価はトーンダウンして「否定も肯定もしなかった」から、それで大まかな人物評は窺い知れたものである。

 瀬島氏については、多くの方々が政財界の指南役で、商社を立ち上げた偉大な人物との評価を下しているが、これは山崎豊子の「不毛地帯」の影響が多分にあるだろう。私も若い頃はこの書物に影響されたし、テレビドラマを感激して見たものである。旧軍人の「情報感覚」が優れていることが、民間人との比較という点で、私には誇らしかったのである。しかし、退官後、シベリア抑留者の会とお付き合いし、多くの抑留体験者と交流するにしたがって、幹部学校時代の戦史教官の言葉を思い出したのであった。
 今朝の産経では、山崎豊子氏も「昭和史の大事な生き証人が肝心なことを語らぬまま亡くなったことは非常に残念、シベリア抑留の歴史的真実をしっかり話すべきだったと思う」と語っているが、並みいる「賛辞」の中で、作家の保坂正康氏も「…太平洋戦争の台湾沖航空戦の情報握りつぶしや、昭和19年夏に始まった『捷号作戦』とのかかわり、東京裁判ソ連側の証人になった経緯など、瀬島さんでなければ語れないことを語ってほしかった…インタビューで感じたのは、瀬島さんが生涯にわたって軍官僚であり続けたこと。官僚だから本当の現場のことは知らない。そして責任も取ろうとしない。本質を語る代わりに、方法論にはたけていたということだろうと思う」と評している。しかし、現代風に置き換えてみると、彼は当時CS出の一「2等陸佐」だったわけで、そんな大局に立った責任を負わされていたとも考えにくい。
産経新聞から)
 さて、尊敬する戦史教官の言が正しいとすれば、これから色々な「評価が出てくる」のだろうが、私が不満に思うのはただ一つ、「国際法違反、卑劣な人道無視を重ねたソ連の悪業を語ることなく、亡くなった事」に尽きる。
 東京裁判では「平和(修正!)に対する罪」で我“戦犯”は処刑された。最も極悪非道な「60万人以上」を極寒のシベリアに抑留して“6万人以上を虐殺”した、ソ連の「人道に対する罪」こそ裁かれるべきである!それをせずして去られたことが大いに不満である。

シベリアに逝きし人々を刻す―ソ連抑留中死亡者名簿

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短歌(うた)で辿るソ連抑留記

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