軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

この国の滅亡は免る可からず?

 25日は都心での研究会に招かれた。日大名誉教授で敦賀短大学長の佐久田氏が主催するNPO「提言・提案の技法を勉強する集い」である。この日は渡邊利夫・拓大学長の「新・脱亜論=陸奥宗光『蹇蹇録』に学ぶ」という演題で、福沢諭吉の脱亜論から始まり、日清戦争までの歴史を振り返った。朝鮮半島に“肩入れ”していた福沢は、運命共同体としての日本と朝鮮との関係に絶望して豹変、明治18年8月13日付の『時事新報』に、「朝鮮の滅亡はその国の大勢に於いて免る可からず」と書いたという。
 渡辺学長は「日清戦争は、朝鮮半島における日清の帝国主義的戦争であったと位置づけ、当時の我が国の指導者達が「時代の環境をどう観察して、いかに国益を守ろうとしたか」に焦点を当てて解説した。出席者の多くが旧海兵78期生で、戦後各界で活躍された方々ばかりであったから、日本の現状を憂えておられたが、まだまだ背筋はのびて矍鑠としておられる。まだまだ当分は頑張っていただきたいと思ったのだが、「あたご事件」の報道振りを見ている限りでは、福沢諭吉ではないが「この国の滅亡はその国の大勢に於いて免る可からず」と思わされる。

 ところで今朝の産経新聞5面の「政論探求」欄に、花岡編集委員が「『なだしお』『雫石』の再現を憂える」と書いている。
「前防衛事務次官の『ゴルフ接待汚職』といい、相次ぐ機密漏洩といい、防衛省自衛隊には『タガの緩み』を払拭して本来の国防任務をまっとうできるよう、大改革・大刷新を求めなくてはならない」というのは全く同感である。故に私は石破大臣の続投を期待し、大改革をしてほしいのだが、花岡氏は「そうしたことを前提として、あえて言及しなくてはならないのは、今回の事故の受け止め方が、『なだしお』『雫石』を連想させることだ」として、両事故の事実関係に触れ、「いずれも悲惨な事故であったが、共通しているのは、自衛隊側を非難する報道ラッシュと当時の防衛庁長官が辞任したことだ。これにより自衛隊側が100%悪いというイメージが定着した」が「海難審判では双方に過失があったとされ」、雫石事件でも「刑事裁判では全日空機側の衝突回避対応の遅れも認定され、民事裁判では過失割合が『国2、全日空1』とされた。つまり、いずれも発生直後の『自衛隊全面悪玉』報道と最終的に明らかにされた構図とは、相当の食い違いがあったのだ」と書いた。これが問題である。事実関係が判明しても、自衛隊「悪玉論」を続けたマスコミが修正したことはない。今回も、万一この事故で意外な事実が出てきた場合にも、おそらくメディアは「教科書問題」「百人斬り問題」同様、絶対に修正しないだろう。最も産経だけは「教科書誤報事件」では謝罪しているが。
 御巣鷹山事故の時も、救助が遅れたJALに対するよりも自衛隊側の遅れを大々的に非難し、更に一部メディアは、米軍に『自衛隊は何かミスをしなかったか?』と問い合わせた。米軍報道部長からその事実を聞かされた私は、常々反米であるこれらメディアが、こんなときには米軍の能力を高く評価する異常さにあきれたものである。報道部長はこれらメディアを『クレイジー』だと言った。
 花岡氏は「事故原因は現段階では断片的に伝えられていることばかりなのだ。ここは政治の舞台でも冷静さが欲しい。『なだしお』のケースでは、国際社会では『軍艦』の通行が最大限に優先されるのが常識、という指摘があったことも想起しておきたい」と控えめだが、軍事軽視の異常さの根源はすべて『憲法』に行き着く。
 松島基地司令時代に、佐藤3佐(現参院議員)を指揮官として一部がゴランに派遣されたが、仙台の東北総監部で催された壮行会で、陸自の同期から「PKOに参加して、海外で『貢献したい』と言う隊員たちが増えて困っている」と聞いたときに、私は本来日本のためにある組織が外国のために汗を流したいという本末転倒ぶりに大いなる危機感を抱いたものであったが、今後はその傾向がどんどん進むのではないか?防衛事務次官の『ゴルフ・マージャン・カラオケ・焼肉』漬けも、実はそんなところに原因があったりして・・・
 以前掲載した私の『日航機事件に対する反論』を読み返していただきたい。「自衛官といえども人の子、評価されないことに耐えられる聖人君子ではない」と書いた筈だ。
 奇しくも昨日は226、こんな写真を送ってくれた方がいたが、意味深長なものを覚える。今年の2月26日は穏やかな一日だったが風は強かった。

 いずれにせよ、感情的な一時的気の迷い?で「この国を滅亡させてはならない」のである。