軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

サムライ、逝く!

 今年2月13日付ブログで紹介したA団司令の訃報に接した。陸士53期のパイロットで最後は浜松の第1航空団司令、雫石事件の責任を取って勇退された。
 古武士そのままの司令と初めてお会いしたのは、昭和39年6月12日、当時AWC(幹部高級課程)学生であったA1佐が、われわれが操縦課程学生として訓練を受けていた静浜基地に年間飛行に来られ、風呂場でお会いしたのであった。
「貴様ら防大か?」
「ハイ、そうです」
「何期だ?」
「7期であります」
「7期か、そうか。話をするから自習室に集まって居れ!」
「ハイ・・・」
 その旨を伝えると、翌日フライトがあって準備しなければならない同期が「何だ、偉そうに!俺は明日フライトだから勉強しなければならないんだ!」と不満を言った。
 しかし相手は1佐、われわれは新品3尉、勝負にならない。その時の私の「将校日誌」には次のようにある。
「本日6時、幹部学校AWC課程・A1佐のお話を伺う。旧軍の骨格はあと5〜6年を残すのみ。その後は新時代、若い世代に移行する。従って旧軍の経験者は極力若い者の育成に努めるべきだ、との言は真にその通りだと信ずる。以下、話の内容を簡潔にまとめる。
1、操縦は天性である。うまくいっても自惚れず、失敗しても悔やむことはない。ただし努力は必要である。
2、大戦経験者は、努めて軍の本質を次の世代に伝えるべきである。
3、士官は軍の中心として常に徳操の涵養に努めねばならない。
4、航空はまとまりにくい性質を持つ。しかしまとめるように努力せねばならない。それは“人格”である。
5、伝統の確立
 久々に心に残る話を伺い極めて嬉しきものあり。同期10名と記念撮影する」

 その後私は築城基地で、当時芦屋基地司令だった司令と会い、奇しくもその後第1航空団の戦闘機操縦教官時代に団司令としてお仕えした。
 昭和46年7月1日付で浜松に着任された司令は、パイロット養成数が増え、訓練空域が手狭になったために松島基地の1個飛行隊を教育部隊に編成替えして出来た「第1航空団松島派遣隊」を抱えて多忙を極めておられた。それは松島の4空団司令も同期のH司令であったものの、派遣隊はいちいち浜松から指揮を取る変則な状態だったからである。
 そしてその月の30日に事件は起きた!空幕長も飛行教育集団司令官も着任早々であったから現場は大混乱、事故の実態がつかめないまま「報道」が先行し、全ては後手後手に廻った。記者会見の“指揮”は松島基地司令が取り、事故の掌握は浜松基地司令たる団司令だったから全てがちぐはぐ、その上防衛庁長官と空幕長が遺族に土下座して辞表を提出したから責任は自衛隊にあると決まったようなものであった。
 長官以下、空自のVIPが遺族の前で興奮した記者たちから土下座「させられた」のだが、後列にいたA司令は「事故の真相究明もまだでどちらが悪いかも不明な時に、土下座して謝罪するのはおかしい」と考え背筋を伸ばしていたところ、一カメラマンから「この野郎!土下座しないか!」と背中を足蹴にされたという。

 何回か松島基地へT-33でお供したが、ある日浜松基地への帰路、後席から「佐藤、俺は自衛隊を辞める決心をした」といわれ、「冗談じゃありません。真相究明もないまま辞任されるのは責任を認めることになるから反対です」と言ったのだが、「勿論、調査が軌道に乗り、訓練が復旧したことを確認してからのことだ」といわれ安心したことを覚えている。着陸のため私が操縦桿を取ると「佐藤、旧軍時代、自衛隊時代を通じて、私は国のために一途に働いてきたつもりだった。確かに大戦には負けた。しかしカメラマン如きに足蹴にされる言われはない。長い軍人生活でこれ以上の屈辱はない。軍人としての誇りを傷つけられた以上、私は制服を脱ぐ」と言ったのである。

 苦労を重ねてやっと念願のウイングマークを授与される修了式には、必ず第1種制服と白手袋姿で一人ひとりに修了証書とウイングマークを渡された。真夏のどんなに暑い日でも、教官たちが第3種(半袖の略装)であっても司令だけは第一種正装であった。
「長い間懸命に努力して青春のシンボルであるウイングマークをつける日は、学生にとって人生最大のメモリアルデーである。それを心から祝ってやるのは団司令の責任」というのが口癖だった。

<修了式を終えて:前列中央白手袋姿が司令。後列右端が主任教官の私>
 思い出は尽きないが、楽しみにしていた貴重な取材が今後出来なくなったことは実にさびしい。5月1日、「一寸怪我をしたから君との会談は延期しよう」と電話を頂いたので直ちにお見舞いに行ったが、ベッドに横たわったまま「何で来た。こんな姿を見られたくないから早く帰れ!見舞いなんかいらないから持ってかえれ!」と搾り出すように言われた。「老いては子に従えです。片意地張らずに素直に看護婦さんの指示に従って早く直ってください。そして又会談をやりましょう」と腕をさすったのが最後だった。

 私も入院したりでご無沙汰していたから、お盆も過ぎた昨日クリニックに電話したところ、18日に肺炎をこじらせ亡くなったことを知った。連休間に全ては処置されたという。
 嫁いで居られる娘さんの電話番号を教えてもらい、お悔やみを申し上げたが、肺炎が悪化したので6月中ごろまで、なんと、私が入院していた同じ病院に入院していたという。 私は5日に退院したが、司令はベッドに固定され、管で直接流動食を流し込まれることに「人間としての尊厳を傷つけられる。排便排尿を孫娘のような看護婦の世話になりたくない」と強硬に反対され15日に退院、クリニックでは管をはずしてもらい、平常人として生活し、時にはタクシーで好きなお寿司を食べに出かけるなどむしろ元気になっていたそうだが医者の心配どおり、肺に固形物が混入して排除できず、18日に89歳と5ヶ月の人生に幕を下ろされたのだという。
 “頑固”だったから付き添い人泣かせだったと娘さんは言ったが、私には「自分の美学」を最後まで貫かれた司令がうらやましかった。そして最後まで信念を貫いた司令の姿になんだか嬉しくなった。
「父は頑固者で・・・」と娘さんは言われたが、今の日本の男達の中にそんな「頑固者」が消滅したのであり、侍が減ったことの証、司令の生き方に私は共鳴するとお答えした。
 13日夜、「源氏ボタル」が飛んできた、とブログに写真入で書いたが、その謎が解けたような気がした。特攻隊物語には「蛍」が良く出てくる。ロマンチックで物悲しい「蛍物語」、しかし、昔羽根を持って飛んだことがある者には何と無く理解できる物語。きっと13日に司令がわざわざ私に挨拶にこられたのだ、と私は思っている。「佐藤、先に行って待っているぞ」と。
 こうして又一人、己の美学を貫いたサムライが旅立って逝った。心から、頑固なサムライ・荒井勇次郎閣下のご冥福をお祈りし、いずれ黄泉の世界で「気ままな」会談が続けられることを楽しみにしている。

武士道

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