軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「終戦」か「敗戦」か?

 女子柔道63Kg級で谷本選手が金メダルを取った。しかも全て一本勝ち!「子供達に日本柔道を見て欲しかった」と語る姿に感動した。「自分でも驚くほど体が動いた」とも言ったが、試合の動きを見ていて、彼女は相当練習をつんでいることが読み取れた。最後の内またも、相手の動きに逆らわず、ごく自然に出た技だが、これが出るというのは練習量が多かった証拠だと思う。剣道でも無意識に出る技が「本物」であり、意図的に「面」をとろうとしても取れるものではない。相手との小競り合いの中で自然に出る技、これが出るまでは相当な練習量が必要である。27歳の彼女の健闘を称えたい。
 ところで各地で「叛乱」が続くので、武装警察の厳重な警戒の中で行われている「平和の祭典」に違和感を覚える日本人は果たしてどのくらいいるのだろうか?

 
 さて、一昨日の「正論」欄に、阿川尚之・慶大教授が「終戦は日本の『選択』だった」と書いている。今日の「正論」には、長谷川三千子・埼玉大教授が「『8月15日神話』の問ひかけ」と題して、8月15日が終戦記念日とされていることについて考証している。

 阿川教授は、終戦という言葉が定着したのは「戦争に負けたと言いたくない政府の意図を、多くの国民が共有したからだろう」として左右両陣営の主張を分析しているが、「戦争に負けて真っ先にすべきは、敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをすることである。それをしないで、本当は負けていない、悪いのはアメリカだ、自分たちは犠牲者に過ぎないなどと、60年間もぶつぶつ言い続けるのは、潔くないし、何の役にも立たない。負けは負けと率直に認め、そのうえで最善の策を取らねばならない」「8月15日は、単に敗戦の屈辱を思い戦前を賛美する日ではない。自らを犠牲者とみなし、一国平和主義へ逃げ込む日でもない。そうではなく、何人かの勇気ある指導者が敗戦の現実を直視し、ぎりぎりの選択をしてあの日戦争を終わらせた。改めてそうとらえてこそ、単なる敗戦の日ではなく、真の意味での『終戦』記念日なのである」「難しい問題を抱える現在の我々も、終戦の困難に立ち向かった人々の凛々しい態度に学びたい」と書いたが同感である。

 長谷川教授は「法理的な観点から見るならば、昭和20年8月15日は何の日でもない。ポツダム宣言の正式な受諾は8月14日のことであり、帝国大本営が全軍に休戦命令を出したのは8月16日である。降伏文書が調印されたのは同年9月2日であり、更に本当の意味での『終戦』は昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効の日であったといはねばならない。8月15日はただ、天皇陛下玉音放送により日本国民に日本の降伏が告げ知らされた日に過ぎないのである」「昭和20年8月15日正午――氏(『八月十五日の神話――終戦記念日のメディア学』の著者:佐藤卓巳氏)自身『この瞬間、ラジオの前の日本国民は全ての活動を停止していた』と言ふその瞬間を、自らの心身をもって追体験するといふことであらう。そのこと抜きに『八月十五日神話』を内側から明らかにすることは不可能なのである」と書き、河上徹太郎氏が「あのシーンとした国民の心の瞬間」と呼び、「全人類の歴史であれに類する時が幾度あったか、私は尋ねたい」と語り、桶谷秀昭氏が「謎の瞬間」と書いたことを取り上げ、「これが感傷や心理の問題ではなく、我が国の精神史上最も重要な問題の一つであることを、心ある人々はすでに洞察してゐるのである」と書いた。

 昭和20年8月15日、私はこの日を長崎県佐世保市相浦町にある相浦火力発電所の社宅で迎えた。6歳の誕生日直前であったが、正装した両親とともにラジオの前に正座して玉音放送を聴いた事を覚えている。この日は夏の真っ盛りだったが、社宅中が森閑として蝉の声だけが騒々しかった。父(当時47歳)の日記にはこうある。
「昭和二十年八月十五日・終戦の日(天皇陛下の玉音を拝して)
 日本国民の永久に忘れることのできない昭和二十年八月十五日正午十二時、国歌君が代に次いで天皇陛下玉音放送で戦争は終わった。しかし戦には負けたのだ。とうとう紀元二千六百四年と八ヵ月半で日本の紀元に終止符がうたれてしまった。おそらく大和民族の流れを汲む日本人は誰もが涙を飲んで愕然としたことであろう。永久に忘却できない痛恨事で、この日を期して終生戦争はするものではないということを肝に銘じたことと思う」
 これは日々の日記を昭和49年に改めて纏めた物だから、転載の際にいささか戦後の感想が混入していることは避けられまい。しかし、当時の一庶民の感想は伺える。
 この時、幼かった私が覚えているのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という部分だけだったが、終戦のご詔勅には「帝国政府をして米英支蘇四国に対しその共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨通告せしめたり」とあり、父が日記に書いたように、庶民は玉音放送を聞いて「終戦」を確認し、同時に「負けた」ことも自覚していたと思う。
 なぜ8月15日か、の問いには、この玉音放送が大きく影響していると思っている。当時天皇は現人神であったから、その玉音が発せられた日、つまり15日はある意味“絶対的な”重みを持っていた。政府が連合国との諸手続きを経て示した日など、その足下にも及ぶはずはなかった。勿論占領軍が示しても国民は上辺だけのものとして扱っただけだったに違いない。天皇のお言葉はそれほどの“威力”があったのである。
 その上15日はお盆(新暦)の中日であり、「戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及びその遺族に思いを致せば五内為に裂く・・・」との戦没者に対するお言葉からも、素直に国民はこの日を「終戦の日」「供養の日」として受け入れたのだと思っている。

 長谷川教授が書いたように「この日は確かに何の日でもない」事は自明だが、日本中から(戦地も含めて)玉音以外の一切の雑音が消えた特別な日なのであり、感傷や心理の問題ではない精神史上特記すべき日だったのである。
 阿川教授の「敗戦か終戦か」については、学者が屁理屈をつけるまでもなく、庶民は実態を認識していたのではなかろうか?と思う。勿論阿川教授が言ったように「戦争に負けて真っ先にすべきは、敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをすること」は大事であろう。それを日本人の手で実施して始めて戦後の呪縛から解放されるのだと私は思っている。

 その意味でも8月15日に福田首相靖国と千鳥が淵に参拝し、戦陣に散った英霊を供養し、国民の中にわだかまっている戦後の“呪縛”に決着をつけるのを期待しているのだが・・・。上坂冬子女史が、行かねば「男が廃る」と言ったが、やはり福田首相には無理な話のようである・・・。

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