軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

『樺太(サハリン)紀行(1)』

   ……六〇年ぶりの里帰り(2001年6月)

 六月八日から一一日までの短い期間であったが樺太を「強行縦断」してきた。大正九年三月に二二歳で渡樺した父は、昭和一五年六月までの二十年間樺太に住んでいて、私は昭和一四年八月に豊原市(現在のユジノサハリンスク)で生まれたのだから、私にとっては生まれて初めての里帰り、つまり「センチメンタル・ジャーニー」であった。

 北方領土地図『樺太回想録(太田勝三著:文芸社)』から 


 八日の一二時に函館空港を四四人乗りのサハリンエアラインのターボプロップ機・AHー24PBでユジノサハリンスク空港に向けて飛び立ち、二時間後に、札幌市に似せて整然と整備されたかっての豊原市上空を横切って無事着陸した。
 所持金と貴重品登録が厳しい税関と、機械化されていない入国審査に三〇分かかり、漸く終わったと思ったら更に男性職員からパスポートの審査を受けたのには驚いた。こんな扱いを受けたのでは、日本からの観光客の増加は期待出来ないだろう。日本時間に二時間先行している現地時間に時計を合わせた一行一一名は、ガイドを務める二一歳の大学生・ローマン君と「乗客運輸サービス業」のオゴロードフ・アレクサンドル(通称サーシャ)氏が運転するマイクロバスに乗り込んだ。
 空港前の駐車場はさながら日本の中古車市場の様だったが、サーシャ氏自慢のカラオケセット付マイクロバスは韓国製である。道路は簡易アスファルト舗装が大部分で、木製の電柱の根元だけがコンクリート製であるのが目を引く。明るい日差しの市内各所の木陰では市民が寛いでいる。バス停に並ぶ長袖姿の人々の間を、日本製の中古車に混じって、色あせた軍用車両らしい草色のトラックやジープが走っていたが、中に左右に異なるサイズのタイヤを付けた小型乗用車がひどく傾いて走っていて、ロシア人の物事に拘らない柔軟性?には驚嘆した。
 空港では通貨交換が出来なかったが、市内に入った歩道脇にバスが停車すると、どこからともなくアジア人の両替屋達が集まってくる。ガイド君がまとめて交換してきてくれたが、一〇US$(約一二一〇円)が二八〇p(ルーブル)である。

 ユジノサハリンスク市の人口は約一六万人との事だが、まるでファッションモデルの様に美形の若い女性達が目につく割には人々の動きには活気がない。そんな中に「レストラン・サイゴン」という看板が目に入った。
 古いアパート群が立ち並ぶ中心部を通り抜けると、郊外には広大な農地が広がり、所々にセメント工場らしい建物や、コンクリートブロック製のアパート、スレート葺きのうらぶれた木造家屋が目につく。道路脇に蕗が群生している田舎道を、一路約二五〇キロ北のポロナイスク(旧敷香)に向かったが、延々と白樺林と立ち枯れた松林が続く。酸性雨による被害だそうだが実に痛ましい。私は、父が日記に手書きで記入した日本領当時の詳細な地図を片手にバスに揺られていたが、出発後約一時間で、日本時代「落合」といい、王子製紙系の富士製紙工場が創設され発展したドーリンスクを通過した。「樺太鉄道の起点。製紙工場で成り立っている所」と父の日記にあるが、工場は今でも稼働していて人口は一万六千人だという。陸軍の駐屯地らしい広大な施設は荒れ放題で外柵もぼろぼろ、側に故障したトラックが立ち往生しているのは、如何にも冷戦に敗れたソ連の象徴の様である。幹線道路だとはいえ二車線で舗装が悪いので振動が激しい。
 やがて右手はオホーツク海が接する海岸線となり鉄道と並行して北上を続けるが、海霧が濃くなり始め、三沢基地時代に苦労した「やませ」を思い出す。そんな寒々とした風景が、客車のスクラップ、トラックの残骸、奇妙な形の墓石が立っている墓地、釣りをする少年二人…などと共に後方へ飛び去っていく。バスは、時速百キロを越えるスピードで走っている様だが、路面が悪いのでウッカリ喋ると舌を噛む。内陸部の丘には所々に残雪がある。ユジノサハリンスクを出発して約二時間、グズボリアという集落を通過したが、墓地に日本語で書かれた「回想の碑」が建っていた。誰が、何時どのような回想のために建てたのであろうか。ここで漸く徐行している列車を見たが、動いている列車を見たのは二日間で各一本にすぎなかった。道路状況で分かるとおり経済活動は殆ど麻痺している様だ。駅前広場には掘立て小屋の出店があり、数人の婦人達が茹でた「タラバガニ」を売っていたが、観光客も通らないこんな所で一体誰が買うのだろう。

 暫く走ったところで「トイレ休憩」のためバスが止まる。十人の男性は樺太中部の大地に向けて思い思いに「放水」したが、日本のご婦人達のツアーは当分望めないだろう、という意見で一致した。石炭を運ぶトラックが擦れ違う程度の、未舗装の凄まじい悪路を埃を巻き上げながら北上すると、家族連れの車が故障して止まっていた。サーシャ氏が脇に止めて声を掛けたが携帯電話もなく、JAFがあるわけでもないから援助出来るわけもない。この家族は夜になったらどうするのだろう。


 八時を過ぎたが周囲はまだ明るく、私は白夜を始めて体験した。木立ちが低くなり、水芭蕉が群生する湿地帯が目立ってきたが、父の日記によると真縫(アルセンチェフカ)付近だろうか。だとすれば「西海岸奥地に出張する時は、ここから真縫山道を通って久春内に出ると便利なので、往復の度にここの局長にはお世話になった」とあるから、父も同じ道を幾度か通ったのであろう。
 やがて、余り稼働しているとは思えない軍の車両工場が見え、周囲には玄関の上に番号が書かれた、多分官舎と思われる木造家屋が目立ったが人影は疎らで、子供達が数人サッカーをして遊んでいるだけである。部隊は細々と運営されているのだろう。こんな寂れた田舎村に住んでいる若者達は本当に可愛そうである。進行方向の左手が山、その裾が道路、右手に鉄道、更に右手が海岸という、なんの変哲もない荒涼たる風景が続く。視界に入る家屋の大半が廃屋の様に見え、五階建てのアパートの二部屋だけに明かりが点っている。他の部屋は空き部屋か、電気を節約しているのだろうか。防大時代によく歌ったロシア民謡「灯」を思い出した。「夜霧の彼方に、別れを告げ…」というあの物悲しい歌である。まさにその原風景が眼前に広がっているのだが、ここは「旧知取(しるとる)」付近の様に思われた。    (続く)