軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

『樺太紀行(4)』・・・共産主義者の没人間性

 六月十日の日曜日は今にも泣き出しそうな曇り空で冷気が身に染みた。そんな寒い公園のベンチにホームレスが三人座っている。
 六時二十五分に起床した我々は、例の朝食を車内で摂ることにして七時に出発した。今日はポロナイスク(敷香(しすか ))からコルサコフ(大泊)まで一気に約二百九十キロ、ほぼ東京・仙台間に匹敵する高速道路ならぬ「悪路」を走破しなければならない。
 小雨降る中、今度はオホーツク海を左手に、湿地帯に挟まれた水溜まりの悪路を、「ウタダヒカル」を聴きながら南下する。余りにも酷いぬかるみなので、バスは徐行を強いられていたのだが、突然ガン!というショックと共に急停車、何人かが前席シートで顔面を打ち私も両膝を打ち付けた。サーシャ氏が車を降りて点検すると、深い水溜まりに前車輪が丸ごと落ち込んだらしくバンパーが損傷している。
 八時すぎ、ジャガ芋畑が広がる中に、陸軍駐屯地と、海上警備用の軍事施設が見えたが今や廃墟同然である。この島は、ソ連が日本から奪い返した途端に発展が大きく阻害されたのだと痛感する。スターリンは、大東亜戦争終結直前に疲弊した我国に侵攻し「日露戦争の仇を取った」と豪語したが、国の面子とは、国際法を無視し、人民を犠牲にしてまで実行しなければならぬほどのものなのだろうか? その結果がこの有様なのだから、スターリン共産主義の没人間性が見て取れる。
 父の日記には、わが国が樺太を統治していた頃の、残留ロシア人との共存共栄ぶりが記してある。知取町の大火災で郵便業務支援のため父が三週間この町に滞在した事は前述したが、この時ロシアの老婆が郵便局に来て、身振り手振りで何かを父に訴えた。
 断片的な単語から「海が荒れて発動機船で帰ることは危険だから、泊岸(トマリシ)村に住む息子に陸路迎えに来てほしい」という老婆の意思を察した父は、早速敷香と知取の間にある泊岸郵便局に電信を打つと「局の近くに昔から住んでいるロシア人の大きな農場の老婦人が昨日知取町の景気を調べに発動機船で出かけたが、海が荒れてきたので息子が心配して馬車で迎えに行く準備をしているから、それまで婦人を保護しておいてほしい」と返電があり、やがて迎えの馬車が着く。
「若い息子さんは立派な人で、日本語ですらすらと私に礼を述べ婆さんも手を振りながら何度も頭をさげて帰っていった。友人連中から佐藤君は『ロシヤ』の婆さんに見込まれた、と冷かされて苦笑いしたが、言葉が通じなくとも双方誠意を持って当たれば意思が通ずるものだと悟った。微笑ましい国際親善のひとこまであった」とある。
「誠意と人間性」が欠落した共産主義国には日本人ほどの抱擁力はないのである。この島が昔日の活気を取り戻すためには、不法に奪取した北方四島をわが国に返還し、謝罪した上で日本からの経済協力を受け入れる以外に道はあるまい。
 原爆始め、膨大な兵器を作り続けてきたツケが、今この国に重くのしかかって押しつぶされようとしているのだ、と昔の泊岸だと思われる海岸線一帯を眺めながら私は思った。

 一一時半、グズボリア駅前で小休止する。往路で婦人が「タラバガニ」を売っているのを見掛けた場所である。茹でた蟹が100p〜250p(400円〜1000円)だという。T夫妻が今夜の酒の肴にと一匹買った。そこに数人のロシア人達が集まってきて、その中の戦闘服を着た「山と森のガイド」だという男が我々に上手な日本語で話しかけてきた。ワシリー・ミハリョフと名乗る、日本語を独学で学んだという彼は、サハリンの森林地帯は酸性雨の被害が甚大だと語ったが、その脇の「東洋人」が北海道庁の職員だったとは気が付かなかった。「どちらまで?」と彼に訊かれた誰かが「五〇度線まで」と答えると、「ああ、国境ですね」と言ったそうで、「今でも彼等は『国境』を認めている」と車内で話題になった。
 駅構内には赤錆びた長い列車が停車中で、広場にある公衆便所は表現の仕様がない程不潔であった。中国もそうだったから、衛生観念の希薄さもまた「共産主義国」に共通する特徴らしい。


 午後一時、漸くドーリンスクを通過、広大な駐屯地前のバス停には迷彩服の三人の兵隊が立っていたが、冷戦終結による基地縮小の影響は歴然としている。外務省出向時代に国連が「軍事費の社会的経済的影響」について研究した事があったが、少なくともサハリンにおいては、軍の撤退による経済的なダメージが甚大だったのだと推察出来た。

 三十分でユジノサハリンスク市内に入り、レーニン通りを一路コルサコフに向けて通過する。雨模様のせいか、日曜日だというのに市内は閑散としている。
 二時十五分、コルサコフ(大泊)市内に入った。二年前に発行された旅行案内書には人口は四万六千人だとされているが、ローマン君は三万人だと言う。
 韓国資本の「ALFA HOTEL」で遅い昼食を摂る。ホテル前に駐車している十三台の車のうち、我々のバスとロシア製の一台を除いて他の一一台全てが日本製の中古車だった。三時半に昼食を終え、市内が一望出来る展望台に登った。側に対空レーダー部隊の古い施設があり、稼働している様には思えなかったが、女性兵士が飛び出してきて「写真禁止!」と注意した後、笑顔で手を振りながら戻っていったので驚いた。一九七七年にモスクワを訪問した時の緊張感が信じられない。 
 大泊は、大正六年七月、一九歳の父が初めて単身渡樺した所である。この時は大泊の東にある長浜郵便局に勤めたのだが、その八キロ東に「荒栗」という残留白系ロシア人が多数定住している部落があって、「一五、六歳の女の子『ナスチア』と十二、三歳の男の子『ワエンカ』姉弟がよく郵便局に顔を出すので仲良くなり、一緒に馬車に乗って彼等の家に遊びに行った」。
「家族も老人以外は皆日本語が上手なので不自由はない。兄弟が沢山で家族中でとても歓待してくれた。…パンは一斤一個で十銭で譲ってくれる。…道端には、樺太人参があり、土地の人はこれをたくさん採取しているとの事だ…」と日記にある。
 その後父は一旦北海道に戻り、大正九年三月に再度渡樺、昭和二年に豊原郵便局に転勤するまでの間この地に住んでいたのだから父にとっての思い出の地である。港内を見下ろすと、稚内からの定期フェリーが一隻入港していて、古びた警備艇や漁船の中で一際目立っている。この国には船体を塗装するペンキも金もない様でスクラップ寸前の錆だらけの船体を見せつけられると、あの「ナホトカ号」の事故は当然だと痛感する。古色蒼然たる市街地には現在も国立銀行支店として使われている旧拓銀大泊支店の建物が当時のまま残っている。コルサコフもまたソ連に占領されたために発展が大きく阻害された港町だ、と思った。         (続く)