軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

樺太紀行(5)・・・日本の統治が続いていれば・・・

 三時五〇分にユジノサハリンスク(豊原)に戻るため、起伏の多い丘陵地帯を通りながらはるか海岸線を見ると、座礁して放棄されたらしい廃船が目に入る。
 四時四〇分にユジノサハリンスク市内に入り、郷土史博物館を見学した。ここは日本時代の樺太庁博物館がそのまま使われているのだがその造りの立派な事に驚く。
 一階はサハリンの自然や開拓史が、二階には戦争史料が展示されている。そこに表裏に菊の紋章と帝政ロシアの紋章が鮮やかな二個の旧境界標識が展示されていた。父の日記によると当時は、東部、中部、西部に三個の大きな境標とその間にやや小さめの標が合計一七個立っていたという。

 父の日記には、昭和十一年十月に父が西海岸国境の安別まで地況調査に出かけた時、国境で撮影した写真があるが、それと同じに見える。父が触った物と同じではないかと思いながら日記のコピーを持って記念写真を撮ったのだが感無量であった。
 博物館の前庭には、日露戦争当時の大砲が展示されていたが、地面に転がっていた艦載砲の砲身には「明治三十七八年戦役記念 海軍大将 男爵 片岡七郎謹書」とあった。
 閉館時間になり、職員達の冷たい目に急かされて退出し、隣の将校会館(旧豊原中学校跡)の屋外に展示されている戦闘機(SU15)や戦車などを見物した。


 続いて展望台(旧旭ヶ丘)から市内を一望するため林の中の未舗装の険しい道を登坂すると、スキー場がある開けた高台についた。眼下に広がる市内は、戦後五五年間成長が止まっていた地方都市の趣で、私が生まれた昭和一四年夏にタイムスリップした様な錯覚を覚え、ついに里帰りを果たしたのだ!と実感した。
 実は父の日記に「豊原市内には通算約一三年間住み、四二歳までの本籍地でもあった。もう今はソ連領になってしまったが永久に忘却出来ない地だ。この地には五人の家族の骨が眠っている」と書かれていたので、せめてもの親孝行にと、五人分の写経を持参していたのだが、ローマン君に適当な埋設場所がないか訪ねると、「昔の日本のお寺跡を知っている。そこなら誰も立ち入らないので埋めても構わない」という。参加者一同の同意を得て現場に向かうと何と展望台のすぐ下の林の中に石畳の拝殿跡がほぼ完全な形で残っている旧樺太神社跡であった。神殿跡らしい礎石の部分が露出していたのでそこに写経を埋め亡き親族の成仏を祈った。
 思いも掛けぬハプニングに驚いたのが、東京のある学者から「樺太神社跡がどうなっているか調べてきてほしい」と依頼されていたA氏で、私は「任務」を果たした感激で一杯だったから、夕食を摂ったこじんまりとしたレストラン「スラヴァンカ」で飲んだ「EAЛTИKA」ビールは格別に旨かった。
 八時半に「ホテル・サハリンサッポロ」に入る。ここは日露合弁だったそうだが今ではロシア側に横取りされたという噂である。部屋に浴衣が置いてあって三日振りの入浴を楽しんだ後、出発前に樺太住民だったM氏から送られてきた地図を頼りに、私が生まれた高田産科病院跡を訪ねる事にした。
 レーニン通りに沿って少し歩いたところに売店があったので覗くと、棚の大半は酒類で、日用品が僅かに並んでいた。残った一〇〇pを使いきる必要があるのでマダムにウォッカを見せて貰うと彼女はサハリン産の大瓶を推薦し、モスクワ製の小瓶に顔をしかめる。その時男性が一人入って来て私の手元の大瓶のウォッカを見て「サハリン、グー」と右手の親指を上にあげ、次に小瓶を指して「モスコー、バッド」と思い切り親指を下に下げた。マダムと同じくモスクワ製は嫌いだ!と言う意思表示だと理解し、極東の地に押し込められ、中央政府から見捨てられたサハリン洲民達の本心を見た様な気がした。
 大瓶二本を購入して歩道を歩いていると、偶然「彼」と擦れ違った。自分が推薦したサハリン産のウォッカを手にしている私を見て彼は、再び「サハリン・グー、モスコー・バッド」と言い、ロシア語で話しかけてきた。ロシア語と英語のちゃんぽんで彼・ワシリー氏は一方的に喋るのだが、ソルジェニツインやペレストロイカラーゲリ等の言葉が頻繁に出て来るところから察すると、要するに中央政府に大層不満を持っているらしい。ロシア語が理解出来れば思わぬ情報が得られたに違いない、と残念だった。
 すでに一〇時を過ぎていたから残念ながら病院跡を訪ねるのを断念してホテルに戻り、T氏夫妻の部屋で、グズボリアで買った身の痩せたタラバガニを肴にウォッカを飲みながら反省会、十二時に解散した。

 六月一一日月曜日は朝から冷たい雨が降っていた。七時半に食堂でバイキングスタイルの朝食をとったが、食堂が狭く団体客向きではない。そんな中、米国人達の姿が目についた。ホテル前のレーニン通りは人影が疎らで車の通行量も少ない。服装が黒、または灰色系統が多いからか、雨雲とも重なって暗い雰囲気が充満している。ロシア人の大人達には活気がなく、何よりも「希望のない目付き」が気になった。

 この四日間、この島を強行軍で縦断しただけだが、その印象はただただ「貧しい!」の一語に尽きる。共産政権八〇年弱の実験は大失敗で二十世紀における諸悪の根源、人類の敵だった事は間違いない。少なくとも自国民の人権を無視し続けただけでもその罪は万死に値すると思う。
 歴史にifは禁物だというが、父の日記に登場した残留ロシア人達の自由な生活ぶり、友好関係、共存共栄の姿から想像する限り、あのまま日本の統治が続いていれば、サハリンははるかに豊かな成長を遂げていたに違いない、否、今でも彼等はモスクワよりも我国の方に期待しているのではないか?とさえ勘ぐりたくなった。良き指導者に恵まれないロシア人はつくづく気の毒な民族である。

 八時二〇分、フロントの「ZHANNA」女史の無愛想な応対を背に空港に向かった。九時に空港に着き、世話になったローマン君とサーシャ氏に別れを告げ、往路と同じ機体のAHー二四に乗り込み、日本時間一〇時四〇分に函館空港に無事着陸、一体何処が「経済不況」なのかと信じられない程明るくて清潔な我が函館の町並みに、日本人である事の喜びを噛み締めたのであった。