軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

2003樺太紀行資料「追憶と郷愁の樺太紀行(その2)」

1143真岡市内にはいる。人口約42000 人。
  *ぼた山、寂れた家屋、落書きが目立つ。バザールの有様は「北朝鮮」潜入画像並み! 
1150〜1200トイレ休憩。港の船着き場にて。
  *乞食、浮浪者がたむろしている。若者も多く雑然としている。
  *ピーナッツ、種、腸詰めを売る老婦人達。額の皺が凄まじい。
1216港が見える高台にある、真岡で犠牲になった「電話交換手」始め多くの日本人を慰霊する「鎮魂」碑に花束を捧げる。
  *鎮魂碑の裏側には、「ここに眠る諸霊を鎮め平和と友好を祈念し真岡町関係者有志が望郷の思い想いをこめてこの碑を建立した。1995年8月 真岡町関係者有志一同」と、日露両語で彫ってある。
 〜1245旧王子製紙工場、および社宅跡を見る。
  *工場はすでに廃墟。
  *荒れ果てた社宅には、ロシア人達が今でも住んでいる。
   日本人を追い出しで、その後にロシア人を住まわせたソ連のやり方に、「侵略」という実態を見た気がした。ソ連・ロシアこそ「侵略国家」である!
   その結果、自国民もこの惨状である。まさに彼等は「棄民」であると痛感した。
  *南真岡駅を通過、ここも廃墟と化していた。


 1248レストラン「КУСИР0(釧路)」で昼食
  * このレストランは、その名のとおり日本人オーナーが開いたものだが、開店後、オーナーは住んでいたアパートの3階からロシア人になげ落とされて死亡、一緒に働いていた「板前」は、恐怖を感じて帰国したため、現在はロシア人が経営しているという。
 2年前にも、これと同様な手段で、豪華なホテルを乗っ取られた、という日本人経営者にあったことがある。これが事実だとしたら、国際犯罪ではないか?
  * 事実、店内には日本式の「暖簾」などがかかっていて、ショーウインドウには、カレーライスや串焼き、丼物など、和食のサンプルが飾られたままになっていた。

 1400旧真岡郵便局跡を訪ねる。ロシア人のアパートの一角になっていた。
  *市内の暖房用のパイプは、断熱材がぼろぼろになっていて、ほとんど保温出来ていない。ガイドさんは、どこも同じで、家庭に届く頃には冷えきっている、と言った。メンテナンス、という考えはロシア人にはないのでは?という結論になった。
 1415真岡市出発(車内で)
  *ロシア人は基本的には「人は良い」。しかし代々「ドロボーの家系」の人達がいる。盗む性質が「血の中」に流れている。
  *ロシアには「ロシア人のあしたは3年」という諺がある。要するに当てにならないという事の例え。
  *夜の女が相当いるが、彼女達の手取りは30%。残りは「ヒモ」の取り分!
  *ガイドさんの父は、炭鉱で働いている時に怪我をして身体障害者になった。日本統治時代には生活は保障されていたが、敗戦で保障がなくなった。終戦直後、ソ連兵3人が自宅に来て、父を“徴発”しようとした。当時は、男性は皆ソ連兵に駆り出されて、労働させられていた。父が身体障害者である事を知ったソ連の将校が、母と私を連れ出そうとしたので覚悟した。将校は私たちを日本人の米倉庫に連れて行き、欲しいだけ持って行けと仕草で示した。私と母はリヤカーに詰めるだけ積んで家に帰った。そんなソ連軍将校もいた、とガイドさんが思い出話をしてくれた。

 1450薄日がさした。ガイドさんとのやり取り。
  *Q;娯楽について
   A;共産主義時代には、豊原には映画館が7軒あったが、今では2軒になってしまった。理由はVTRが広まった事による。
  *樺太に送られて来たロシア人達は、海産物を見たことがなかったらしく、料理の仕方を知らなかった。

 1500中国人家族が、トラクターの荷台に、白菜とキャベツを山のように積み上げて、道端で売っていて、それをロシア人が買っている。
  *兵役は18才からだが、大学生は除外されている。海軍は3年間で、大泊に入隊している。
 1520留多加への分岐点。道路脇がやや広くなっていて店がある。ドライブイン?か。
  *キャベツ畑、大根畑が続き、働く中国人が目立つ。
  *豊原市内に近付いた平地で、パラグライダーをやっているのが見えた。
 1535広大な牧草地が続く。
  *停留所でバスを待つ老婦人。6人の男女
  *アパートの窓から所在無げに外を眺める若者3人。
 1545一部白煙が上がる広大なゴミ処分場。カラスと人が群がっている。
  *精神病院。火葬場を通過。
 1555レーニン通りにはいる。賑わっている。
  *きらびやかな軍服を着た「幼年学校生徒」が一人。
 1600神社通り(スターリン)、樺太庁跡を通って博物館に着く。
  *(展示物から)サハリンはかって「流刑者」の島であった。鎖につながれた罪人の写真。
  *1905年まで、船で3年。陸路3か月かかって移動。
  *1804,5年の地図。幅7?の海峡
  *長瀬隆著「日露領土紛争の根源」には、1853年刊シーボルトの「日本」のロシア語訳は、間宮林蔵最上徳内樺太島発見の業績を改竄抹殺していた、とある。彼等は樺太は「半島」だと偽っていたのである。
  *1995年3月28日のオハ沖地震(M7.1)では3000人が死亡したとあった。
  *動物や魚類などの展示品は、全部日本統治時代のもので「お下がり」だという。
  *山猫を保護。現在70匹とか。背丈2.5 m、体重550 ?の熊の剥製。
 1707旭丘へ
  * 見事に続く林は王子製紙が植林したものだとか。どこまで日本人はお人好しなのか!
  * 中止された建設現場、寂れたアパート群、ペレストロイカ以降寂れたのだという。
 1720旭丘着
  *日本時代に建設されたスキー場、ジャンプ台の後を見て、当時の日本人達の「近代化ぶり」を改めて思った。

 1745〜1755豊原神社跡。
  *神殿は取り壊され、参道のど真ん中に妨害するように軍の会議所?が建っていて、参加者から一斉に「罰当たりめ!だからソ連は崩壊したんだ!」と声が上がった。
  *迷彩服を着たガードマン?が出てきて、「ここから出ろ!」と偉そうに言った。
  *ガイドさんのアパートの家賃は月3850ルーブル。彼女の年金は月2500ルーブル、毎月1350ルーブルの赤字だという。
 1805一端ホテルに戻る。その間駅構内を視察。キオスクが並んでいるが開架式ではない。
 1815 Y氏合流、土産物屋が1700に閉店していたので、急遽ガガーリン公園を散策しつつ夕食に向かうことになる。
  *公園内はカップルが目立つ。それも男女、女性同士。男の場合はなぜか3人連れが多い。
  *家族連れ、コカコーラ、屋台が並び、看板が綺麗、以前より増えたように思う。
  *以下、Y氏に同行しつつ聞く。
 
  ソ連時代は計画経済だったから、一定の資本が投下され、生活は安定していたが、ペレストロイカ以降、言論の自由は出来たが経済状況は苦しくなった。
  Q;どちらが良かったか?
  A;勿論、言論の自由の方が、経済不況よりもはるかに好ましい。  【続く】

絵で見る樺太史―昭和まで実在した島民40万の奥北海道 (JPS出版局)

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