軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

雑誌「諸君」の引退を惜しむ

 40年の歴史に幕を下ろすことになった「諸君」最終号を読んだ。「文芸春秋のオピニオン雑誌」から「日本を元気にするオピニオン雑誌」にサブタイトルが変わって2年にもなっていないと思う。“その目的”を達したから引退するのかどうか不明だが、今は過渡期だからこそ「正論」とともに頑張ってほしかった。


「諸君」を買って最初に読むのは1980年から連載されていた「紳士と淑女」であった。これを読んで胸の痞えが取れたものだが、最終号の「ベリー・ベスト・オブ紳士と淑女」を読んで再び忘れていたこの国の歴史が甦った。

 実は私もこの欄で取り上げられたことがある。それは昭和61年3月号で、「日航ジャンボ機墜落事件をめぐる朝日新聞自衛隊批判について、東京新聞の大久保昭三記者による『日航事故・ある自衛官の涙と殺意』(文芸春秋新年号)と、それに反論する朝日新聞田岡俊次記者の『空幕広報室事件・私の真意』(同2月号)を読み比べた」紳士と淑女子の所感である。少し長くなるが引用しておきたい。


【田岡記者は空幕広報室長を非常識と呼び、『やはり、あんたは広報には向いてないんだ。早く飛行群司令にでも栄転した方が似合うよ』ということ(原文では傍点)も話した、と書いている。
 ところが、大久保記者は直接引用で、田岡発言のニュアンスを紹介している。
『お前はバカだよ。まったくアホだよ。これだけまわりに迷惑をかけていながら、まだわからないのか。お前は歴代広報室長の中で、一番最低だよ』
『どッかに飛ばしてやろうか。せっかくどッかの飛行群司令にしてやろうと思っていたのに・・・・・・』
 このうち後者について田岡記者は『飛行群司令は最高の栄職の一つ』だから、そこへ飛ばしてやろうなど言うはずがないと反論しているが、いったい彼はちゃんと大久保記者の文章を読んだのだろうか?

 それはともかく、田岡記者は単に『思い返すと恥ずかしいが、数分間は大声の口論となった』というだけで、自分の言葉のニュアンスには何も言及していないが、朝日の記者は自衛隊の一佐をお前呼ばわりし、バカだの、飛ばしてやるだのと怒鳴るものだろうか。
 いや言うものらしいと信じるには理由があって、朝日の記者には明治時代から尊大なところがあったのである。
 ほかでもない陸軍省医務局長だった森鴎外が、そのことを書き残している。
 場所は赤坂の八百勘で、陸軍省幹部と記者クラブの懇親会の席上だった。座敷の真ん中で、細面の色の白い記者が、芸者に三味線を弾かせて踊っている。酔って目の縁が赤い。やがて、そいつが鴎外の右隣に来て胡坐をかいた。
『ヘン。気に食わない奴だ。大沼〔鴎外の前任者・小池正直〕なんぞはバカだけれども剛直な奴で、重りがあった』
『今度の奴〔鴎外のこと〕は生意気に小細工をしやがる。今に見ろ、大臣に言ってやるから。(間。)此間委員会の事を聞きに往ったとき、よくも幹事に聞けなんと云って返したな。今度逢ったら往来へ撮みだして遣る。往来で逢ったら軍刀を抜かなけりゃならないやうにして遣る』
 思わぬ脅迫に鴎外はあっけに取られたが、考えるひまもなく、こう言った。
『なぜ今遣らないのだ』
『うむ。遣る』
 こうして二人は立ち上がって取っ組み合い、そのまま庭に落ちて鴎外は左の手を擦りむく。『僕には此時始めて攻勢を取らうという考が出た。併し既に晩かった』。二人は、驚いて出てきた座敷の客によって、別々に取り巻かれていた。
 この記者が、朝日の村山某で、鴎外が暴行を受けた経緯は短編『懇親会』にくわしい。
 かっての陸軍省記者クラブと今日の防衛庁記者クラブ。医務局と空幕広報室長。明治と昭和・・・・・・時と肩書きは異なっても“記者様”に対して下手に出るほかない官僚に対して新聞記者の吐く暴言は型通りのものと見える】

 
 鴎外が取っ組み合ったのは料亭だが、私が暴言を浴びたのは「空幕広報室」というれっきとした公務室であったが、なぜか上司の指示で私はその後反論できなくなった。しかし彼は紙面を有効に「私物化」して自己弁護に徹した。


 あまりの傲慢さに、一時は加藤紘一長官も「公務執行妨害」で田岡記者を譴責しようとしたようだが、うやむやになった。昭和40年に起きた「三矢事件」も、記者クラブの記者が「勝手に事務室」に立ち入って机上の書類を持ち出して、当時社会党岡田春夫議員に手渡し、国会で問題にされたにもかかわらず、時の防衛庁長官は「公務執行妨害(私は少なくとも窃盗罪を適用すべきだったと思うが)」で訴えなかった前例に従ったのだろう。


 その後、退官後に沖縄問題の解説を頼まれて「諸君」に一文書いたことがある。それが平成10年4月号に「沖縄の本音は基地存続」というタイトルで掲載されると、今度は身内のはずの空幕長が大慌てでもみ消しに走り、私に対して内々に「基地出入り禁止」通達が出された。内局、大臣に「ご迷惑がかかる」というものだったらしいが、これは「空幕広報室事件」で、田岡記者が「これだけまわりに迷惑をかけていながら、まだわからないのか」と書いたことに通じている。この時は身内(制服)が自ら「迷惑をおかけしたこと」をお詫びして廻ったらしいが、未だにそんな状態が続いていることが“田母神事案”で証明された。


 とまれ、「諸君」には“お世話”になった。最終号に「紳士淑女」氏が、「読者へ」お別れの辞を書いている。そのお別れの辞に大木惇夫の「戦友別盃の歌」を掲げているところがまた泣ける。

「言うなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを、海ばらのはるけき果てに、今や、はた何をか言わん、熱き血を捧ぐる者の、大いなる胸を叩けよ、満月を盃にくだきて、しばし、ただ酔いて勢えよ、わが征くはバタビアの街、君はよくバンドンを突け、この夕べ相離るとも、かがやかし南十字を、いつの夜か、また共に見ん、言うなかれ、君よ、わかれを、見よ、空と水うつところ、黙々と雲は行き雲はゆけるを。」

 そして「紳士と淑女」子はこう締めくくった。「なお、三十年にわたって、ご愛読いただいた『紳士と淑女』の筆者は、徳岡孝夫というものであった」

 読者の方こそ、30年間元気を頂き心から感謝している。しかし徳岡氏は今病の床にあるという。氏には決して弱気にならずに、是非とも再起して『日本を元気に』してほしいと熱望している。

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