軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

危機意識が薄い!

19日、町田で講演したが、天候不順の中熱心な皆さんが集まってくださった。
質疑応答は“回答が長くなる”ので、戦術的に処理したつもりが、時間延長されたため失敗!その上「安倍首相は靖国に参拝するでしょうか?」という質問だったので困惑し、背景説明で終了した!

懇親会も大盛り上がりだったが、そこでも新聞報道の範囲を出ない質問ばかりで考えさせられた。情報源が限られる[庶民?]としてはやむを得ないのだが、メディアの“意図的な誤報”は大問題だと痛感した。


さて、今朝の産経は今回の大島災害について「危機意識薄く【人災だ】」と書いた。
今回の災害の経緯を見ていれば、当初からそれはわかりきったことだった。むしろ、前回書いたように、地滑りのきっかけが「想定外の大雨量」だったのか、それとも「山腹を削って道路を開発した」ことが原因か?を問うべきだろう。それなくして再発は防げない。

≪崩落図:問題はその原因だ!=産経から≫


尤もそれを追求すれば、当時の関係者たちは≪記録がない≫≪当時の基準では想定外≫といって皆逃げるだろうから、時間と経費の無駄だろう。しかし、少なくとも≪道路管理の不備≫は上げられるかもしれない。
全国各地でトンネル事故などが続いた。JR北海道並みの「サボタージュ」は今でも各地で続いているのである。
ところで今朝の産経の記事で町長らの行動が判明した。
川島町長は何故か「島根県隠岐の島町」に、原田副町長も「東京都桧原村」に“出張中”だった。
災害発生を聞いて二人は「自衛隊機などで」16日夕刻に帰島したそうだが、すでに多くの住民が土石流などに呑み込まれた後だった。


川島町長は町議を4期務めた後、平成23年4月に「防災対策を訴え、共産党推薦で初当選」しているのだが、そんな彼でも≪災害は防げなかった≫のである!どんな防災腹案を持っていたのだろう?
600kmはなれた隠岐の島にいる町長と連絡を取りあったのは総務課長だったが結局何の手も打たず、町幹部や防災担当者は15日午後6時5分に、東京都から入っていたFAXに気が付かないまま、6時半ごろまでに帰宅、その後約6時間半後に総務課長が再登庁するまで(FAXは)放置された…」というから、まさに“人災”であることを示している。

≪町役場の対応経過表=産経から≫


この記事で思い出すことがある。

民主党政権時代に起きた3・11震災時、当時の東京電力社長は奈良の古都見物で“不在”だった。事故発生を聞いて帰京しようと名古屋まで来たがその先の便がなく、災害派遣で入間基地に向かう自衛隊輸送機に便乗したのだったが、間もなく入間基地につくという時点で、時の防衛大臣が「許可していない!」と激怒したため、輸送機は名古屋に引き返し、社長を降して再び入間に向かったのであった。何という権威主義の誤判断か!と私は感じたものだが、今回は、一町長らが自衛隊機で帰島したという。公人と民間の違いなのかどうか知らないが、いずれにせよ当時も今も国家の危機管理担当者自身が、起きている事態の緊急性、つまり物事の本質を理解していなかったのであり、危機管理体制に大穴があったのである。
そしてその最たるものが時の菅直人総理の理解に苦しむ行動だった。その後遺症で未だにわが故郷・福島県民は苦しんでいる。

≪こんな無責任男が「日本国首相」だったことを有権者は決して忘れてはなるまい。=週刊新潮10月24日号から≫


次は少し古い事例だが、町長ら不在間の町役場の雰囲気は、昭和16年12月7日(現地)の在ワシントン日本大使館に酷似している。「在外武官物語(鈴木健二著)」には、
≪六日午前、対米覚書を発信する旨の東郷発第九〇一号および取扱いを指示した第九〇四号を受け取っていた大使館は、時が時だけに通告本文がいかに重大なものであるかは察知できたはずだ。しかし信じられぬことだが、大使館員のほとんどはその夕、メイフラワー・ホテルで開かれた一等書記官寺崎英成の南米転勤送別会に出払ってしまい、陸軍武官事務所は前日の五日、ワシントンのジョージ・タウン病院で死去した補佐官新庄健吉の葬儀準備に忙殺されていていた。
覚書本文の第九〇二号一三通が、六日午後に次々と日本大使館に到着したので、情報電信課は直ちに暗号文の翻訳に励んだが、いつはてるとも思えぬ長文に辞易する空気が大使館の一部にあった。
夕刻、八通ほど翻訳が終ると大使館員はいそいそとお洒落を決め込んで、メイフラワー・ホテルに出掛けてしまった。
『明日でいいから片付けて帰宅せよ』との館員の指示で、電信課員も宿直一人を残して引払ってしまったから、同夜は暗号解読の仕上げはもちろん、浄書にも何ら至らなかったのである。
かくて東郷発第九〇一号の『万全の手配』は完全に裏切られ、大使館員は歓送会の酒に酔いしれていた。後で事の顛末を調べようとした東郷に対し、井口は『あれ(電信関係)は自分の管掌事務に非りし為承知しません』と説明を避けたが、説明しようにも説明できない大失態が同夜繰りひろげられていたのである≫
今回も、役場では「土砂災害警報」を無視して町幹部らは帰宅、出張先の隠岐の島では、町長は“交流会”に出席して飲食を楽しんでいた。そしてほろ酔い気分?の午前3時15分、FAXに気づいた総務課長から避難勧告について電話があったが町長は見送っている。


日米開戦によって、結果として250万を超える犠牲者を出したが、大島は人口約8300、今回の犠牲者数49は被害率としては極めて高い。
ワシントン大使館の「電報の束」と、町役場の「一枚?のFAX」という差はあっても、当時も今も役人たちの危機意識と自覚のなさには変わりはないという証明である。
そして不思議なことに、今も昔も関係者に対する「責任追及」は曖昧にぼかされてきた。
つまり、原因追求と反省、改善がないところに進歩はないということだ。

これらの事例からわかることは、そんな“凡人”達に「地球より重い」自分らの貴重な生命と財産を預けてはならぬということだろう。
選挙時に有権者が持っている「一票」の重みがヤットわかったのではないか?


曽野綾子女史は、産経7面の「オピニオン」欄に、「行政に頼らぬ自助の備えを」と題して実にすばらしい意見を書いている。
「避難所で毛布やお弁当などを渡さなくてもよい」
「人はめいめいで2日か3日分の水と食料、簡単な寝具…などを用意すべき」「先行き不明な紛争地では一人一日一箱のビスケットでいい」などという指摘は、自衛隊でいうサバイバルキットを意味しており、「災害は願わしいものではないが、人間を訓練するいい機会である」「耐えがたい不安の中で避難所の夜を過ごしてこそ、人生がわかるのだ。避難民をお客扱いにすることは、どんな困難にも生き抜くすべを、すべての国民に訓練する機会を奪うことになる」…

まして今や「羹に懲りた」町は、島外避難を進めているというからどこかが狂っているとしか思えない。
もちろん、親類縁者が身内を本土に「疎開」させるのは勝手だが、行政がそれを推奨するという意義がわからない。町が責任を持って対処すべきだろう。こんなところがいかにも人間の心が読めない共産主義的発想に見える。案の定、ほとんどの“移動対象者たち”は、他人に迷惑をかけるのは気が重いとしながらも、島に残ると決断したようだ。
三宅島のような火山の噴火ならいざ知らず、台風の2次災害防止で「島を脱出」とは、特にご老人方にとっては肉体的にも精神的にも同意できないだろう。
昔風の日本人には「自分だけが安全な場所に逃げるわけにはいかない…」という仲間意識が強いのだ。海軍軍人が「艦を見捨てない」事に共通する。
敵来襲を知った一部の国民が海外に逃避しても、我々は残って“最後の一兵まで戦う”という自衛官たちの心意気を、為政者たちは理解できまい。
今回の町の避難指導を見て私はそう思った…


曽野女史の文章は貼り付けたのでご一読願うとするが、要は、若いころから学校で「危機に対する対処術」を教えなければこうなるという証しだろう。
それを改善するには、例えば小野田大先輩の「自然塾」のように、退役自衛官らによる「サバイバル教室」は効果的ではないか? 地方自治体で“イベントの一つ”として検討されることをお勧めする。
我々パイロットも、夏と冬の過酷なサバイバル訓練を受けて、必要最小限の対処法は身に着けているが、陸自のレンジャー訓練には到底及ばない。
甘え男らが増えた現在、文科省で検討することをお勧めしたい……オット、行政に期待しても無理だったか!
ならば官僚たちの入省時に、陸自空挺団等に体験入隊して、危機管理の基礎を身に着けておくよう義務付けたらいかがか?


今回の台風事案が終了したら、メディアは24時間体制で大健闘した自衛官、警察官、消防官達が、その個人的な24時間を大島でどのように過ごしたのか、国民に伝えてほしい。
3・11では全国各地から現場に出向いた彼らは、トラックの幌の中で冷えた缶詰飯を食い、警察官らは深夜ホテルに戻り、一般客の目に触れないよう静かに体を休めていた。
一隅を照らす彼らのような存在が、この国の土台を支えていることを、為政者は片時も忘れてはならないのだ。


今日はこれで終わりにするが、次回は注目すべき中国情報についてご紹介したい。

東日本大震災 自衛隊かく闘えり

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日本に自衛隊がいてよかった 自衛隊の東日本大震災

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ありがとう、金剛丸 ?星になった小さな自衛隊員?

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在外武官物語 (1984年)

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大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した

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