軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

海軍搭乗員が見たガ島の惨状

春の叙勲者の中に、台湾の大先輩、蔡焜燦氏の名前があった。日本人よりも日本人らしい、蔡先生に心からお祝い申し上げたい。
今朝の産経抄にはこうあった。


≪【産経抄】「君は祖国を愛しなさい」 4月30日
 旭日双光章を受章した蔡焜燦(さい・こんさん)さんは日本統治時代の台湾・台中市の生まれである。司馬遼太郎さんの『台湾紀行』の表現では「18歳まで日本人」だった。志願して陸軍少年飛行兵となり、奈良市にあった岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊で教育を受ける。

 ▼10年以上前、蔡さんと食事をした機会に、その話をうかがったことがある。「じゃあ白毫寺のあたりですね」と知ったかぶりで教育隊のあった場所を尋ねた。すると間髪入れず「違う違う。新薬師寺の所をこう曲がって」といったふうに、正されてしまった。

 ▼終戦とともにすぐ台湾に帰られており、奈良滞在はごく短期間のはずだ。しかもそれから半世紀以上がたっていた。それなのに、この確かな記憶力である。奈良の地誌や社寺についても実に詳しく教えていただき、関西で長く生活していた者としては赤面するしかなかった。

 ▼短期間でも全身全霊で奈良、いや日本の文化を体にたたきこもうとしたからだろう。帰台後も剣道、短歌、俳句など日本文化に親しみ、台湾歌壇の代表もつとめている。台湾で蔡さんに食事に招かれる若い日本人は、その造詣の深さに驚かされることが多い。

 ▼29日の本紙「人」欄によれば、そんなとき蔡さんは日本人をこう言って諭すのだそうだ。「食事の礼として、君は祖国を愛しなさい」。戦後教育や一部の国からの歴史攻撃で、自国の歴史や文化への誇りを失いがちな日本人にとって「目から鱗」に違いない。

 ▼蔡さんの受章の理由は日本文化の紹介による対日理解の促進に寄与したということらしい。それは素晴らしいが、蔡さんにより「日本」に対し目を開かされたのは、むしろ日本人自身かもしれない。そのことへの感謝の念も忘れてはなるまい≫



今日は雨、昨日はキジバト夫婦に「立ち入り禁止」の意味で、バーゴラに“鳥よけ”を取り付けたのだが、新聞を取りに出たら「ココ、ココ」と声がする。
「まさか!」と思って見上げるとこの状態。

≪鳥よけは効果なし!≫


仲のいい夫婦なので、追い出すには忍びない。誰か「鳩語」を教えてくれないかな〜と思う。また、卵を蛇に襲われては、気の毒だから…
やはり彼らは「過去にとらわれない」のかもしれない…


さて今日は、6月に上梓する予定の「お国のために。特攻隊員に深謝す(仮題)」に、海軍1001空戦友会会報から、福地大尉の奮戦ぶりを引用したのだが、福地大尉以下搭乗員は撃墜された後、ガ島に漂着する。しかし、そこで一行が見たものは、地獄絵そのものだった。

ラバウルから出撃する1式陸攻の編隊。昭和17年11月12日、705空8機。703空(福地大尉指揮)9機、707空3機、合計20機と護衛のゼロ戦30機が出撃、中攻隊で無事に帰還したのは1機だけだった≫

淡々としたその筆致からは、福地大尉の強じんな精神力がうかがえるが、一般に出版されている書籍では感じられない迫力がある。


本著では「同じコックピットに座っていた者の一人として、特攻隊員が突入する寸前の気持ちを推察し、特攻攻撃を発案したとされる大西中将の心情をも推し量ってみた」のだが、そこでは取り上げなかった一行のガ島体験談をご紹介すると約束したので、本日ここに掲載することにした。
戦場で、真剣に戦い、中には捕虜を経験した搭乗員に対して、精神主義と非難されている“陸軍”よりも、非情な処置を下す“帝国海軍の実態”も淡々と記述されている。


飽食の時代、何不自由ない現代に生きる青少年たちには、はるか太平洋の南の孤島で、食料も弾薬も医薬品もないまま、ジャングルの中で孤軍奮闘した祖父の時代の実情は想像すらできないだろうが、この時代に生まれた先輩方は、地獄のような環境下にあっても、懸命に祖国の為に、と戦ったのである。

そんな英霊方に敬虔な感謝の気持ちを捧げない“日本人”には、罰が当たっても仕方あるまいと私は感じている。
私が、8月15日の首相の靖国参拝にこだわる理由はここにある。


愛機は海中深く… 
(雷撃完了後、敵弾を受けて墜落、一行は負傷者共々、洋上を漂う。福地大尉自身も負傷している)

≪撃墜された日本軍機=ウィキペディアから≫

(沈没する機体から脱出した後)…あたりは砲煙のため太陽の光線が遮られ、夕暮れ時のようだった。あちこちに(敵)船が盛んに燃えている。船首を垂直に立てて沈んで行くものもあった。敵駆逐艦が忙しそうに海面を駆け巡っている。沈没船の救助作業であろう。時々残弾が静寂を破って、薄く気味悪く響く。
  
 捕虜にはならぬ 
 我々八名は、ガ島の目標に向かってお互いに助け合いながら一心に泳いだ。正に一難去ってまた一難。敵駆逐艦の一隻が、まっしぐらに我々の方に向かって来るではないか。艦橋が見え舷側が見え、水兵まで見えるようになった。
「しまった!捕虜になるぞ!」
 我々はどんな事があっても捕虜だけには絶対ならない。母の困惑した顔が浮かぶ。
 また、最近モレズビーで自爆した捕虜搭乗員の事が浮かんで来る。彼らは去るフィリピン作戦で不運にも敵弾のため不時着し捕虜となったが、破竹の勢いで進撃を続ける陸軍に救出されて、原隊のラバウルに送り返されたが、司令部では一日捕虜になった者は、どうしても部下として、再び認めてはくれなかった。
 当該、福田分隊長の一身を犠牲にしての願いも聞き入れられなかった。彼ら一行七名は部隊全員白眼視の中に、兵舎の片隅で生ける屍の如き生活をしていた。そして時々、極めて危険な任務が課せられたが、いつも不思議に命拾いをして還って来た。然し、遂に決定的な最後の命令が出た。「モレズビー攻撃後自爆せよ。」
 彼らは誰一人見送りのない飛行場を単機で飛び立って行った。
「〇時〇分、我モレズビーを爆撃す。只今より自爆す。天皇陛下万歳!」を最後に無線連絡が絶えた。
 私もどんな事があっても、捕虜にはなるまいと思い、考えても考えてもどうする事も出来なかった。私より数百米先にも、七〇七空の一機が浮いていて、搭乗員はゴムイカダで一旦退去した筈だったが、駆逐艦の接近により、また飛行機に戻って行き、機長より順々に上部七・七ミリ機銃の銃口に頭を当て、一人ひとり自決してゆくのが見える。多分、天野機であつたと思う。


 駆逐艦は益々近付いて来る。拳銃を燃えた飛行機と共に沈めてしまった我々は、ただもがくだけであった。思いっきリ海水を飲んでみた。舌をかんで死のうと試みた。しかし「やっと助かった」と思う生への執着はこんな事で解決はつかなかった。我々八名は一か所に集結し、ただ神に祈るのみであった。
 次の瞬間、運命の神は、我々に幸いをもたらしてくれた。水兵の駆け回るのが判るほど接近した駆逐艦は浮いている七〇七空の飛行機を砲撃し、これを沈没させると一八〇度方向を変換して、もと来た路を帰って行った。我々のこの時の喜びはたとえようもなかった。
  

 グラマンの後はフカの出現 

 八名は再生の勢いを得て、また泳ぎ出した。然し、まだ虎穴を脱したわけにはゆかぬ。上空には、まだ数機のグラマンが遊えいしている。時々機首を突っ込んで来ては、我々に向かって銃撃を加えて行った。再び私は散開を命じた。元気な者はライフジャケットを捨て、水中をもぐって難を逃れていた。不自由な海中で遮蔽物一つない所、銃撃は譬えようなく薄気味悪い。幸い銃撃のためには一人も致命傷を受ける者はなかったが、苦
手なアイスキャンディの洗礼は真っ黒いスコール雲が我々を包んでくれる迄、約二〜三〇分続いた。敵影一つ見えないスコールの中で始めて「助かった!」喜びが胸の奥からこみ上げて来て、自然と軍歌でも口ずさみたいような衝動にかられ、空腹感、疲労感が一度に襲って来た。「盲亀の浮き木」というか一間ほどの流木を拾って一休みしている時たった。目前二〜三〇米、長い波の尾を引きながら、こちらに向かってくるものがある。
 「フカだ!」あっちにもこっちにもいる。人肉に飢えたルンガのフカの大群である。
 マーシャルにいた頃、一水兵が水泳中、脚をフカにもぎ取られた生々しい記憶が思い出されてギョッとする。全員再び集結を命じた。関口飛長は、一段と鋭い声で傷の痛みを訴える。「殺してくれ!殺してくれ!」羽根田上飛曹は一心に叱ったり、なだめたりして引っ張って来た。集まった数名で一直線になり拾った棒切れで防ぎながら泳いだ。近くまでガブリガブリやって来たが、この時も足をもぎ取られた者もなく無事に済んだ事は全くの奇跡だ。
  
 陸軍のカユ食に涙

 その後は順調に(海流に)乗り、夕闇がガ島の島々に迫る頃、我々はやっとガ島の陸岸が認められる距離に到達した頃は精根尽き果てていた。
 左前方では陸軍の銃声が盛んに聞こえる。我々八名が無事に味方の陸軍陣地に、はい上がった時は、もう夜は更けていた。長い間苦しみ抜いて来た関口飛長は、陸に上がって安心したためか急に容態が悪化した。
 野戦病院を探し回っている椰子林の中で、菅谷飛曹長・羽根田上飛曹二人の腕に抱かれながら、「敵の船は沈みましたか」と何度も聞く。「沈んだから安心しろ」と言うと、さも満足しきったような顔をして間もなく静かに息絶えた。今まで苦痛にゆがんだ顔には、かすかな微笑さえ、たたえているような静かな顔だった。背中に三発と足と顔の弾痕が彼の命を奪ってしまったのだ。彼は今、ガ島の野辺に咲く一輪の名も無き真白き花として、永遠にその芳香を放っているであろう。
 約半里くらいの野戦病院で阿部飛長の応急手当をしてから、陸軍部隊の心からの饗宴を受けた。一人当たり、カユ食茶飲み茶碗八分目くらいだったが、昼間の雷撃を目前で見た陸軍の人々は、マラリヤと栄養失調で骨と皮たけの手で米袋の底をはたき、二粒・三粒づつ集めて炊いてくれた。貧者の一灯は心の底に沁みとおり、有難涙にしばしのどを通らなかった。
 
 日米艦隊の夜戦

 今夜は十時を期して、第二艦隊「比叡」「霧島」を主力とする日本艦隊が、ガ島飛行場を砲撃する事になっていた。第一回は三十六糎の巨砲で、敵に言語に絶する打撃を与え大成功を収めたが、今夜は第二回目だった。ひたすら成功を祈る我々の心を、敵夜間哨戒機の往来が無闇に苛立たせた。
 十時を余程過ぎた頃だったと思う。「ズズーン、ズズーン」巨砲の音に「それ砲撃が始まった。」と海岸に出る。然し、我々の期待は裏切られて物凄い夜戦になっていた。敵に味方の行動を察知されたのか、敵味方、合計、約三十隻前後ぐらいだったか、丁度、運動会の騎馬戦のように入り乱れて、もつれた糸の如く飛び交う砲弾の火箭は実に物凄かった。晴天に沖する火柱が立つたかと思うと、ガ島の島々をグラグラと動揺し轟沈していた。艦は多分、敵戦艦だったろうか、篭マストの吹っ飛ぶ如くに見えた。夜戦はツラギ方面よりサボ島の方に移り、中々止みそうもないが、火箭はだんだん少なくなっていったのは、敵味方の消耗の激しさを物語っている。


 翌十三日、我々は眠い眼をこすり乍ら未明に起き、椰子の実の朝食をとる。いつまでも陸軍に頼るわけにはゆかず、我々で見つけ、椰子リンゴと椰子水を食べた。海上には舵機か機関の故障か、味方駆逐艦一隻、敵乙巡一隻、駆逐艦一隻が動けないでいた。私か椰子リンゴをかぶりついていた時、敵乙巡が味方駆逐艦に第一斉射を放った。水柱が四、五本上がる。「遠の三〇〇米」第二斉射「近の一〇〇米」。味方駆逐艦からは、一向に応戦がない。第三斉射命中、遂に船尾より真っ逆さまに姿を消した。
  

 野戦病院の悲惨

 朝食後、我々は阿部飛長のその後の容態を野戦病院に尋ねて行った。半里近くの野戦病院までのジャングルの道で、第一線より病院に後退して行く陸軍の兵にたくさん会った。何れもマラリヤと栄養失調。骸骨の如く痩せ衰え、一本の棒に体を支えトボトボと歩いて行く。椰子を一個やったらかぶりついて食べた。「有り難う」の声もかすかで聞き取れない。
 道端にはこうした病院まで行けず、精根尽きて行き倒れになった死骸が沢山転がっている。腹は樽のようにふくれ、顔には無数の蝿がたかっている。
 病院とは名ばかりで、崖の所の大木の木陰に一〜二個くらいの横穴を堀り、ここに薬品・器具を置き、数百名の傷病兵は、周囲のひときわ繁ったジャングルの中に寝ているだけであった。軍医は元気な見習士官たった。阿部飛長のお礼とその後の容態を聞く。
 このままでは到底助からない。切開をする事になった。元気な軍医と私は同県出身でしかも、私が栃木中学出なのに彼は隣町の佐野中学出身であったのでよく話が合った。彼は私に乾麺包一袋くれた。切開するまで、まだ少々時間があるので腰を下ろして休んだ。力ない病兵が、また一人着いて診察を受けた。


 「お前は00病だ。お前の命はあと十日だ。向こうで休んでおれ、手当ては無用。」渾身の力で辿り着いた病院の宣告で、彼は空ろな眼つきに多少の動揺を漂わせて私達の休んでいる方にやって来て腰を下ろした。
 「海軍の方ですか。貴方がたはまた飛行機をとりに内地に帰るんでしょう。私の命はただ今お聞きした通りです。私の叔父が東京の本郷にいますから、この時計を形見に届けてもらいたい」と頼まれた。
 聞くと彼も東京帝大の工科出身インテリ兵だった。私も帰れる目算がなかったので彼の願いを断った。
 辺りは無数に転かっている腐乱死体の異臭とこれを慕って来る数限りない蝿には閉口した。スコールがあるたびに、これらの人々は約三〜四十名くらい死んでゆくそうだが、手不足のため、そのままにしてあるとの話に、よく見ると寝ている兵の大部分が死んでいた。中には、手足が白骨になっているものもあった。


 私か乾麺包を食い始めた時である。後方の方からかすかな声で「中尉殿」と呼ぶ声がした。私は自分が戦死した陸軍中尉の服を着ている事を忘れ、しばし自分を呼んでいる事に気が付かなかった。やがて声の主は地を這いながら、私に近付いて来る。
 「何だ、用事があるのか」
 「ハイ、中尉殿が食っているカンメンボウの屑でもいいですから、なめさせて下さい」。

 彼に数個の乾麺包をやったら、両手を合わせて拝まれた。子供のような嬉しそうな表情だった。これを目撃した十数名の兵がまた這い出して来た。
 びろうな話だが、垂れ流しの異様な色と匂いのするズボンを引きずりながら…。うまいうまいと本当にうまそうに食った。


「死ぬ前にもう一回、東京のニギリズシが食いたいな……」
 東京出身らしい兵が云った。宮城前の広場で閲兵を受けた、あの威風堂々たる皇軍兵士の変わり果てた姿とは、どうしても想像出来ない。また、傷病兵の一人が云う。
「横に寝て起き上がれなくなると二週間は生きられない。寝ても未だ顔にたかった蝿を手で追い払うことが出来るうちは、未だ一週間は寿命が有るが、追い払う事が出来なくなり、鼻の穴や口から蝿が出入りする様になると三日以内には死ぬ。そして翌日になると、姐が這い出して来る。」


 この様な現象は判で押した様に誰でも同じそうである。
 阿部の仙台高工の先輩で陸軍軍曹が居た。彼は「破傷風」にやられたとかで体全体が硬直状態になり、丸太ん棒の様に真っ直ぐに伸び、関節の曲がらない足でポックリポックリと歩いて居た。
 そして軍医に「どうしても前線に帰り敵と戦いたい」と言い張って「そんな体では無理だ」と、軍医に殴られ、棒が倒れる様に直立したままドッと音を立てて倒れた。前線に帰り戦いたいとの激しい闘魂には深く感動した。さすが日本陸軍なる哉である。


 その他、肩から腕をもぎ取られ傷口より姐がわいている軍医やマラリヤで青黒くなりあたかも印度兵と間違える様な者、アメーバ赤痢に罹り、骨と皮に痩せこけた兵隊、足の無い者、手首を失った者等々、その惨状は眼も当てられない。特にこの世の地獄であった。


 「今朝は二十五個だ」と話す声がする。昨夜の中に独りで死んで行った人々の屍の数である。夜となく昼となく死ぬ。スコールの後は特に多いという。宵の口に死んだ人は明け方には姐がわくという。人間の強靭さと脆さと生命の儚さをつくづく感じさせられる。
 此処では毎日死んで行く人の死体を一個、二個と品物の様に数えるのである。もし之が内地であったなら、定めし大勢の肉親に見守られながら一喜一憂されて死ねるだろうに……。
 阿部飛長の切開は始められた。私は主操縦、彼は副操縦の関係上、階級を離れ、兄弟の様な親しみがあった。麻酔薬一つない彼の腹部切開は、どうしても見るに忍びなかった。彼の苦痛を訴える悲鳴はだんだんウワゴトに変わっていった。
 
 海軍部隊に移る

 海軍部隊に連絡を取りに行った菅谷飛曹長が帰って来た。その結果、明十四日に二〜三里後方の海軍部隊に移る事にした。
 阿部飛長を急造の担架に乗せて後方に退った。途中、川の辺で一休みしていた時だった。何処から飛んで来たのか、不意に敵の戦闘機の銃撃を食らった。ダダダ…ン、あたりに銃弾が飛び散る。我々は勿論すっとんで逃げたが、腹部切開をしたばかりで担架に縛りつけられたままの阿部飛長までが担架を背負った儘逃げたのには驚いた。まだ元気がある。この分では必ず助かると自信を深めた。

 この海軍部隊は、第十二設営隊であった。本部は藤つるの絡まる密林の中にあって、藤つるが網の様になっていて、太陽の光線が全く届かない不衛生極まりない所だが、敵飛行機を避けるには都合の良い場所だった。
 私は士官用のバラックに入った。其所には戦艦大和の観測隊と共に、飛行場砲撃の第二艦隊の三六糎砲の弾着を観測するために来た三井謙二参謀(兵五五)と特潜(特殊潜航艇)で攻撃に失敗して陸岸に乗り上げてしまった廣中尉と三人であったが、三井参謀はこの時、「学徒出身の士官を大量に養成する事が目下の急務で、生きて帰れたら必ず海軍省に出向いて強調したい」と言っていた。


 この十二設営隊も当初隊員が千五百名位だったそうだが、今は生存者が約1/3位しか残っておらず、その中、軽作業の出来る者は僅か二十名足らずとの事に誠に心細い限りである。
 そこで我々は、毎日椰子の実採りをやった。我々以外に椰子に上る様な元気な者がいなかったからである。特に猿の様に木登りの上手な谷口は得意中の得意であった。
 同じ海軍だったのでラバウルの原隊とすぐ連絡がとれ、帰還予定もすぐ手配し通告してくれた。連絡によると我々の雷撃隊で完全に基地に帰れた者は、その日ただ一機との事。私の中隊の二小隊長機だった。
 我々は食料を輸送して来た駆逐艦で帰る事になった。近くのクサファロング港が味方の補給港たったため、我々の宿舎からこの地方に対しての砲爆撃は言語に絶するものだった。さしものジャングルも、広大な椰子林も砲撃のため、殆ど真っ赤に枯れていた。私達は夜になると、毎日この港に来て砲弾の穴に身を隠し、駆逐艦の入港を待っていた。
  

 駆逐艦は入港したが…
 十七日夜半だったと思う。敵の眼を逃れて、一隻の駆逐艦が入港した。帰還予定の傷病兵が、急にあちらの薮、こちらの穴から這い出して来た。百名、二百名、帰りたさの一心、最後の力を振り立たせ、一里も二里もの道のりをよろめきながら来た人々である。

 駆逐艦からカッターが降ろされ、食料、弾薬が陸揚げされたと同時に、一人で到底腰も立たない様な重病兵が一度に押し寄せる。
 この艦で帰らねば、爆撃と空腹と斗いながらガ島で、野垂れ死ななければならない彼らなのである。もはや命令も統制も無い。地獄の底から這い上がろうとする無数の病人は、波にもまれながらカッターの舷側を握って離さない。
 このまま放置しておけばカッターは転覆してしまう。艇長は必死になって野球のバットの様な棍棒を振り上げて無茶苦茶に殴りつけた。そのたびに鈍い音を立てて、一人づつ海中に沈んで行く。やがて病人を満載したカッターの出た後には、最後の生きる望みを失った人たちが二〜三十人浮きつ沈みつ波間に消えて行く。我々は駆逐艦による帰還を断念した。
 

 阿部飛長の最後
 こんな事をしている間に、阿部飛長の容態はだんだん悪化して行った。傷口よりは黄色い液が沢山出た。彼の顔も次第に血色が悪くなり、苦痛も訴えなくなった。遺言を聞いても、ただ「済みません。家の者にも皆の多幸を祈ると伝えてくれ。」
 力の限り戦った者の満ちたりた顔つきであった。巳の肉体の苦痛を忘れ、看病を感謝する美しい心だった。
 二十五日、例により早朝病室に行く。付き添いの永田は、連日の疲労で無心に眠りこけている。
「おーい、気分はどうだい」返事が無い。毛布をまくってみると、彼の体は硬直していた。
「阿部!阿部!死んでしまったのか、こんな不目由な生活でさぞ苦しかったろう。だが、最後までよく頑張ってくれた…」


 切開手術の時軍医より、弾は腸を避け肝臓をかすめて貫通しているので助かる確率が多い。よく手当てをされたいとの事だつたので、皆で出来るだけの事はした積りだったが、食料だけはどうにもならなかった。
 隊からの配給は一日カユ少々だけ、阿部の栄養補給のため、野豚狩りを計画したが、ゲリラが危険であるといって止められ、椰子笥を食べさせたいと思って椰子の木を切り倒そうとしたら、椰子を切った者は死刑に処すとおどされた。
 椰子を切ると直接、飛行機の攻撃にさらされるので禁止されていたのを、新参者の我々は知らなかった。
 又、河にボラが泳いでいるが、とても捕まらない。手榴弾でもあればと思うが、そんな気のきいたものは無い。部隊の周辺には草の根であれ、木の芽であれ、蛇やネズミまで口に入る物は皆無である。
 死因は栄養失調であった。長身の彼が骨と皮だけで胸だけが太い。肋骨の一本一本の間は谷の様にへこみ、足の関節だけが松の瘤の様に大きく、何とも説明の仕様もない状態だった。
 手術口は未だ治ってなく、肋骨一本が外に突き出ていた。その他我々も知らなかったが、背中に大きな傷とひどい床ずれの跡があり、全く正視出釆ない状態だった。
 午前中、敵飛行機のすきを見て、一番上の墓に頭を北に向けて葬った。そして、その上に木を削って「故海軍二等飛行兵曹阿部冬之墓」と私か鉛筆の芯をなめながら書いて墓標を立て、「骨は必ず拾いに来るぞ。」と約し、一同手を合わせて彼の冥福を祈った。
 兵舎の方は阿部が居なくなったので、墓地の下の方の小屋に移った。小屋の主は大津照さんという、四〇がらみの藪睨みの如何にも一癖ありそうな人物であった。彼は軍属で、話によると、横浜市六角橋の近くの八百屋で女房が長患いで入院中、女遊びを覚えグレ出した小博打打ちだと、自称していた
 特にインチキ花札賭博は名人だと威張って居た。もし内地に帰れたら温泉を廻ってインチキ賭博をやるのを楽しみにして居ると語った。
 そして又、戦争に行って死んで呉れれば、親戚縁者にも申し訳が立つから是非死んできてくれ、と女房から頼まれた等と言っていたが、然し彼の部隊で生き残ったのは皮肉にも彼独りらしい。
 彼の部隊は設営隊で、ガ島飛行場の建設に当たっていたが、完成二日前の早朝、突然敵の艦砲射撃と飛行機の爆撃を受けた。丁度その時は朝食時であったので、ある者は食事半ばで、ある者は箸を持った儘で、ある者は褌一つの作業姿で、蜘蛛の子を散らす如くジャングルに逃げ込み、誰一人として敵に向かう者はいなかったそうである。
 然し、陸戦隊の人達は何とか飛行場を死守しようと努力していた様であるが、やがて自動火器を持った米軍の海兵隊が戦車に守られ、旅団単位の人数が上陸して来たので、百名前後の三八式歩兵銃だけの装備ではどうにもならず、ジャングルに引き上げたらしいとの事。ジャングルはターザンの映画で見る限り果物・木の実が沢山有り豊かそうに想像されるが、現実には全く反対で、刺の生えたブッシュや蔓草が繁茂し、中に入り込んだら、進む事も退く事も出来ず、方角も判らなくなり、太陽の光も入らず、海に落ちたより始末が悪いので、逃げ込んだ大部分の者はジャングル内で餓死したか、敵に投降して了ったかだと照さんの話である。そして、味方部隊に辿り着く迄三十数日ジャングルを放浪して歩いたと言う。(続く)≫

ガダルカナル戦記〈第1巻〉 (光人社NF文庫)

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