軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

続・海軍搭乗員が見たガ島の惨状

ゴールデンウィークの中休み、お天気も中休みの様だが、韓国は相変わらず「客船沈没」問題で紛糾していて、国自体が沈没しそうな雰囲気だ。この程度の危機管理意識、危機対処能力、指揮能力しかない政府と、日米韓の同盟を結ぶのは危険だろう。

一方、中国も危機に瀕している。表向きは「経済大国」と言い張っているが、人民に居住の権利も認めず、強固な言論統制を敷き、今度は宗教の自由を認めず、こともあろうに教会を“破壊”した。
こんな宗教弾圧をする国に、おべっかを使い、ちやほやするキリスト教国も偽善国家だと思う。

シナは、北朝鮮に対して“野蛮だ”と石油提供をやめたようだが、“目くそ鼻くそ!”どちらもどちらだ。

やがてバブル破裂が起き、年内には共産党も破裂するだろう。その時には、人民は空気も水も食料も「毒性まみれ」の大陸から“脱出”できないだろうが、日本や欧米からの援助で「高度経済成長」を遂げ、その上がりをくすねて外国に蓄えている共産党幹部らは、「セウォル号」船長が、沈みゆく船からいち早く脱出したように、まるでネズミのように国外へ脱出するだろう。いや、すでに脱出しつつある。

彼らには、出来たらマレーシア航空か、ピーチ航空を利用されるよう希望したい!


国内でも、三重県警や滋賀県警のような帳尻合わせで仕事をした気になっている“役所”や、自分のミスで高校生の楽しみを奪っただけではなく、学校にうその脅迫をするという民間会社が出たが、何ともモラル退廃の兆しが濃厚になっているのが非常に気がかりだ。
やはり日教組というイデオロギー集団に占拠された学校教育の乱れは、国民のモラル破壊に直結していることを痛感する。文科省に期待しても無理だろうから、子供を通わせる親が十分警戒することが必要になろう。
父兄らは、かけがえのない無垢の赤ずきんちゃんを“狼”が巣食う場所に通わせている気がしてならない。これでは我が国の21世紀は闇から抜け出せない。



さて、ガ島にたどり着いた福地大尉一行は、地獄から脱出して本土に戻る。
しかし、その手段は失われているので、ラバウル基地に放棄された1式陸攻のスクラップを集めて飛行可能な機体を作り上げる。メーカー顔負けである!
まさに事実は小説より奇というべきで、モノに囲まれ恵まれた贅沢な生活をしている現代人には想像もできないことだろう。
モノづくりの原点ともいうべき後半の体験記を掲載する。


(承前)
≪ 潜水艦に便乗しショートランドヘ
 この間も敵に投降した者から「投降すればご飯も食える。煙草もある。羊羹もある」と誘われたが、投降すれば戦車で轢き殺されるとの噂もあるので、その誘いには乗らなかった。そして樹の皮を食い、トカゲ肉をしゃぶりながら生きてきたと照さんは語った。


 阿部を埋葬した夜だった。三井参謀より二十六〜七日頃、味方の潜水艦が西方約二十数里のカミンボに連絡のため浮上し、参謀はじめ大和観測員の一部が帰る事になったので、搭乗員は便乗出釆るかもしれないとの朗報を得た。
然し、先程の駆逐艦の時の例もあるので、先走って皆に知らせてがっかりさせては…と思い、密かに三井参謀と話を進めている中に、何とか便乗出来そうになった。
 然し、潜水艦の浮上予定日迄、時間が無いので、取りあえず移動準備をし、本部の皆さんや阿部が世話になった軍医長にお礼を言って出発した。
 照さんや他の者達は羨ましそうな笑顔で、ラバウルに帰ったら、又、攻撃に来て呉れと云って、我々を送ってくれた。


 出発間際に、第一小隊三番機の島崎兵曹の三名と合同することが出来た。三番機は敵艦に突撃中に、主操縦員の岡宮兵曹が機銃弾で即死、又、通信の梅沢、板野兵曹、搭乗整備の設楽兵曹も戦死したとの事だった。
 吉田は口を貫通され、口が裂け歯が全部もぎ取られ包帯で顔を巻いていて何も食べられぬ状態だった。もっとも食べる物も無かったが…。
 三井参謀他、大和観測隊員は、陸軍の大発で海路をカミンボに行くが、全部乗れないので負傷兵のみ大発の便乗を頼み、私と残りの者は陸路移動する事にした。然し、陸路であれ、海路でも常に敵哨戒機が飛んでいるので、昼の行動は無理で夜間しか行動は出来ない。潜水艦の浮上予定日が迫って来るので強行軍の連続であった。


 二十七日早朝、徒歩部隊カミンボ着。海路移動部隊は先に着いていたので、我々のために食事を用意していて呉れた。ここは食料も比較的あったので、久し振りに腹一杯食べることが出来た。
 二十八日夜、やっと潜水艦が浮上する事になった。昼頃山手で二発の銃声がした。敵襲! 早速陸戦隊が配備について、我々にも配備についてくれと言われ、数丁の小銃を持たされた。間もなく斥候が帰り、ゲリラである事が判り、芋掘りに出た兵隊が狙撃され負傷したとか。
 海岸で潜水艦の浮上を待っていた。潜水艦は、昼の中に潜航して来て、海底に鎮座していて、夜になって浮上するので、それを待っているわけである。
 陸海軍の参謀達が、時計を見ながら注視している。やがて、小山の様な真っ黒い潜水艦が浮上したので、大発に乗り込んで陸を離れ、潜水艦に近付いたが、潜水艦には舷梯が無く、足場になる所は半円の穴だけ。
 当直将校が「何名か」と叫ぶので「三十二名」だと答えると「何だ話が違うぞ」と不審な顔で、降ろされるかと言う不安で一瞬ドキッとする。
「まあよい、急げ、急げ。」と促されてホットする。


 艦には青のりが張っていて、滑って中々上がれない。最後に私か乗ろうとした時、突然「空襲!空襲!」「急速潜航!」の号令がかかったので、夢中でハッチに頭から飛び込んでホットする。艦内は電灯が赤々として猛烈に暑い。先刻まで荷揚げ作業をしていた軍医長が、汗びっしょりになって我々の建康状態を聞きに来て呉れた。室内はクリーム色でカーテンの仕切りがあり、フランス人形、田園風景の絵がかかっていて、我々の乞食のような風体とは全く不調和であった。
 従兵が、水入りレモンジュースと鰻の胆入り缶を運んできた。調子の良いエンジンの響き、艦は静かに潜航、ショートランドに向かっていた。


 翌日も潜航した儘二ノット位で航行していた。潜水艦の兵隊は、皆ぶくぶく青白く肥っていた。一度出撃すれば三ヶ月は太陽を拝めないという。その代わり夜の眼は、海上に浮かぶ木の葉までも認められるという。正に訓練の成果である。我々飛行隊が対潜哨戒に苦労するのも当たり前の事である。
 母港に帰り太陽を見ると、暫くの間は色眼鏡でも掛けないといられないそうである。三十日午後、ショートランド港に入港し退艦する。
 第六根拠地隊司令部に顔を出し、横浜航空隊に仮入隊した。一安心したせいであろう、この頃からガ島で感染したマラリヤが発病し始め、何人かは四十度以上の高熱に冒された。私も何時までも死んだ陸軍中尉の服を来ているわけにも行かず、羽根田兵曹の飛行服を借り、横空飛行隊長とラバウル行きの飛行便の交渉をした。
 十二月一日、ラバウル要務飛行の九七大艇に便乗することが出来た。初めて乗る飛行艇は大した飛行機だ。振動も多く、乗り心地は誠に悪いし馬鹿でかいだけだ。離陸の勇ましい事。レバーを出したり引っ込めたり……。
 然し、お陰で無事ラバウル港に着水出来た。早速、司令部に報告に行く。司令官自ら参謀を従えて出てこられた。
 ガ島の詳細の報告を済ませた後、ビールで生還祝いをして戴いた。幸いな事に航空参謀の中西二一中佐(兵五七)は私の前任地、二十二航空戦隊時代の飛行隊長で重慶成都・蘭州の攻撃を共にした人であった。


 ラバウルで廃材の一式陸攻を整備して帰国準備
 ラバウル「山の上の飛行場」には千歳空の者は誰もいなかった。我々の攻撃が最後で、之が全滅したので部隊再編成の為、北海道の千歳基地に移動していた。そして我々の報告を聞いてくれる者も、戦死した者達の功績を称えてくれる者も、暖かい手で迎えてくれる者もいなかった。
 我々の私物も、戦死者の物という事で全部整理され、何一つ残っていなかった。


 ラバウルに帰って暫くすると、全員マラリアが発病した。私も、四十度以上の高熱の日が続いた。キニーネの副作用か、度々夢うつつの幻覚症状に悩まされた――敵と塹壕で対陣している時だった。直ぐ眼の前に真っ黄色に熟したパパイヤが下かっている。谷口の様だったが、それを取りに行くという。私が狙撃兵が狙っているから止めろ!としきりに怒鳴ったが、到頭彼は塹壕から飛び出し、パパイヤに手が届いた途端、バーンと一発の銃声がして、彼はパパイヤの木から崩れ落ちた。丁度第一次大戦の「西部戦線異常なし」の小説の様だった。長い陰爵な塹壕戦線に美しい蝶が飛来したので、それを捕らえ様と手を伸ばした瞬間、狙撃兵に射殺されたのと同じ話の幻覚であった――。
 ガダルカナルでの、食物に対する執着が未だ消えていないのだ。


 中西参謀からの連絡があった。航空便で内地に帰る事は見通しがつかない。さりとて、病院船も駆逐艦も今の処予定がないので、飛行場に廃棄処分になった一式陸攻が沢山ある。それを飛べる様に整備して、それで帰る様にと。其の為、整備員を十数名派遣するとの事であった。
 早速、程度の良さそうなものを見つけ、エンジンを交換したり翼を付け替えたりの作業が始まったが、この頃、私もマラリアの発熱がひどくあまり記憶がなかった。多分二〜三週間かかったかも知れない。

≪現地での整備風景。これは昭和19年、ケンダリ―基地でのもの=会報誌から≫

   

 富士山の白い頂き
 マラリアも大分治まった頃、飛行機も出来上がったので試飛行をやり調子も上々だった。然し、廃棄処分された飛行機なので、機銃・電信機は勿論、航法兵器は何もない。コンパスの磁差すら分からない。
 偵察の羽根田兵曹に「之で内地まで飛べる自信はあるか。」と聞いた処「日本の国は東西に長い、北を向いて飛べばいつか日本列島に突き当たる。行きましよう」との返事。流石、四艦隊麾下で内南洋を飛び廻ったベテラン偵察員だ。
 トラック諸島は島が多いので、先ずトラックに向け進路をとり、到着した島でコンパスの誤差を逆算して求め、サイパン経由で千歳基地に行く事にした。全行程三千浬近い。一気に常夏の国から雪の国北海道行きである。
 我々の服装は、ボロボロになった防暑服、半ズボン、草履ばきで、髪はぼうぼうの乞食姿である。
 八丈島付近に来た頃だった。富士山の白い頂きが雲の上に見えた時は、感無量というか、涙が流れて止まらなかった。
 日本の冬は寒い。三千米上空では、零下十数度。何とも我慢が出来ないので、木更津基地に降りて防寒対策を整える事にした。
 焼け跡の残ったオンボロ飛行機より、乞食姿の搭乗員が降りて来たので、木更津の隊員が異様な眼で我々を見ていた。私は海軍中尉の意識があったが、誰も敬礼などしてくれる者がない。浮浪者が迷い込んだ位にしか見ていないのだ。


 原隊の千歳基地に着陸、涙の報告
 当直将校に事情を説明して、毛布各自一枚づつを借用して、再度千歳基地に向け出発した。千歳到着予定時の電報もお願いした。
 三陸海岸を飛ぶと津軽海峡は吹雪であった。通常ならば必ず引き返す様な悪い天候だった。然し、一刻も早く懐かしい戦友の待っている原隊に帰りたいの一心で、吹雪に突っ込んだ。
 間もなく、前面の風防ガラスが、雪の為、視界がなくなった。翼の前縁に雪が積り回転数も落ちる。横の窓を開き、横目で前方をチラチラ見ながら翔ぶうちに、やがて北海道が見え、懐かしい飛行場の滑走路が見えて来た。
 着陸予定時間を通知しておったので、格納庫前に司令以下三五〇〇名の隊員が整列し出迎えて呉れていた。私は司令への報告事項を前以って心の準備をしていたが、司令の前に整列した時は感無量と言うか、涙がとめどなく流れて言葉が詰まってしまった。
 司令は優しく「報告は後刻ゆっくり聞く、先ず病院に行って手当てをする様に。」との事だったので、隊員に助けられながら病室に行った。


 この記録の後半は、その療養中に病室にて思い出しながら書いたものである。
 七〇三空最後の攻撃隊の搭乗員六十四名中、この機で帰った者は、私と菅谷飛曹長、羽根田上飛曹、島崎上飛曹、松平三整曹、永田飛長(操縦)、谷口飛長(電信)、吉田飛長の九名であった。
   

 あとがき
 私はその後、幾多の航空戦に幸運にも生き残り、無事復員することが出来た。そして今、彼らの三倍以上の歳月を生き永らえて、平和で豊かな幸せな生活を満喫しているが、一時も彼らの事が心から離れた事がない。
 よく、歴史は勝者が作るものだと言う。そして、常に勝者の立場が正当化され、敗者の反論は許されない。占領軍であるアメリカの指導の下に作られた新しい日本の社会は、この様に国の為に死んで行った同胞をも、軍国主義者だと極めつけている面もあるが、今日の日本の繁栄は、この人達の尊い犠牲の上に築かれたものである事を確信し、この項を終わる。

ラバウルでの福地中尉の雄姿(左から3人目の飛行服姿)=戦友会誌から≫


(1001空戦友会会報「福地会長をしのぶ特集号」平成14年12月1日発行より)

福地大尉は、昭和13年4月に海軍第5期予備学生に入隊、同期生は20名であった。海軍志願の理由は、まことに単純なもので「泥臭い陸軍よりスマートな海軍にあこがれた」というものであった。東北大学農学部出身だったと思う。氏は「私の歩んだ道」という自分史を書いておられるが、その中に、次のような所見がある。


≪戦争とは恐ろしいものであり、悲惨なものである。又空しいものでもある。
 戦争を体験した私は、平和な社会の有難さを誰よりも痛感する一人である。私の二十代の大半は戦争であった。
 私は、海軍航空隊に所属し、空中戦も数十回に及び、私自身も被弾を数回した。ソロモン海戦の時には撃墜されたこともあった。補給路を断たれた飢餓の島ガダルカナル島に漂流した時だった。武器弾薬は無論、食料も皆無で無数の腐乱死体の転がっている中を、食料を漁りながら島を彷徨う毎日でもあった。
このような体験から得たことは、人間は追い詰められた時、更にそれが生命の限界にまで達した時、どんな行動をとるかということを知らされた。
 アフリカの象は、食料がなくなると唯独り静かに死んでいくが、知恵と欲望のある人間という動物は、自分の最後の命を守るため、あらゆる知恵を働かせ倫理道徳観を超え、平和な時代には、想像も付かない行動をとるものであるということを知らされた。その後、奇跡的にガ島を脱出、空中戦にも生き残り、無事復員することができた。……(中略)
 あれから五十有余年、今や社会の常識は一変し、権利主張、平等社会依存体質、物質万能と我々の時代のような責任感、義務感とか、忍耐自助努力という言葉は風化してしまったように思われる…≫


そして「自分史」の最後には「妻・和子を思う」という次のよう文章がある。

≪妻・和子は、積極的な性格で、また、完璧主義である。方針を指示して依頼すれば、安心して任せられる人間である。
自然が好きなので、花壇つくりに興味があったが、植物を育て養う体験は、生まれ育った環境により全くの素人である。最近花つくりを始めたが、技術的に全くの未経験であるが、私のポイント、ポイントの指摘を参考に立派な花園を作り上げた。また裏庭の空き地に野菜畑を作り始めた。
 どうせ暇つぶしくらいにしか思っていなかったが、結果は立派に成功し、自家用は勿論、知り合いにも分けてやり、大変喜んでもらっている。植物に対しては無経験であるが、生来の積極性と完璧主義のたまものだと思う。
 さて、私の痛感したのは以下のことである。採取してきた野菜を料理していた時のことである。自家用としては有り余るほどであるが、良い品ばかりではなく、悪い品までも一緒に丁寧に処理していた。「自分で作ったものは、大切でなかなか捨てきれない」と独り言を言いながら。
 一般に人々は唯で与えられたものに関しては、あまり感謝の気持ちは起こらないし、それが習慣になれば、不足すら起こるものであるが、自分の努力によって獲得、成し遂げたものであれば、大切にして無駄にすることはないのが人間であることを強く教えられたように思った。

 今の政治、行政の行き過ぎた福祉、保護制度、平等、権利(欲望)主張など、その仕組みに、或いは又、それによって社会的な常識に何か無し尽くした点を感じないだろうか?
 日本再建のキーポイントはこの辺にあるのではないかと思われる。(原文のまま)≫


以上が福地会長の遺稿「未完成自分史」からの抜粋である。
読者、特に若い方々は福地大尉の戦中戦後の体験談にどのような感想を抱かれただろうか? 大空で激戦を生き抜き、ガ島で生死の極限体験をしながらも、常に部下を思い、そして復員後は和子夫人と夫唱婦随の素晴らしい家庭を築かれている。これぞ日本男児の生きざまだ!と痛感する。


私が松島基地司令だったとき、福地会長以下1001空の皆さんが訪問されたことがあったが、それ以降毎回会報誌を送っていただき勉強させていただいた。
福地栄彦会長が亡くなったのは、平成14年5月18日、心不全であった。今年で13回忌を迎える。
6月に訃報を知った私は、次のようなお悔やみの手紙を書いている。

≪拝啓
 1001空戦友会報を拝受しましたが、福地会長が逝去されたことを知り驚きました。かって、松島基地をご訪問下された折、身近にいろいろな体験談を拝聴し、令夫人様が、常に一心同体で付き添われている理由が、身体内に残っている弾丸の影響で、いつ何時異変があっても対処できるようにとの配慮からであることを伺い、改めて感動したことが昨日のように思い出されます。

 会報で過酷なご体験を拝読させていただきましたが、かかる人格の指揮官に恵まれた1001空の素晴らしい団結ぶりに、さもありなんと納得しておりました。心から哀悼の誠を捧げます。
令夫人様によろしくお伝えください。   敬具
  平成14年6月16日 


今、改めてここにご冥福をお祈りしたいと思う。合掌

英国東洋艦隊を撃滅せよ―海軍中攻隊空戦記 (光人社NF文庫)

英国東洋艦隊を撃滅せよ―海軍中攻隊空戦記 (光人社NF文庫)

ヨーイ、テーッ!―海軍中攻隊、かく戦えり

ヨーイ、テーッ!―海軍中攻隊、かく戦えり

雷撃隊、出撃せよ!―海軍中攻隊の栄光と悲劇 (文春文庫)

雷撃隊、出撃せよ!―海軍中攻隊の栄光と悲劇 (文春文庫)

ある駐米海軍武官の回想

ある駐米海軍武官の回想

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した