軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

安保法案閣議決定

4月19日、キジバトが我が家に巣をかけ始めて約1カ月経った5月14日、2羽のひなが無事に巣立ったことが確認できた。

比較的小ぶりな2羽が、時折親と連れ立って近くの電線から「お礼」の言葉を述べている!!
無事に育ったので一安心、キジバト防衛作戦を終了する!

≪無事に巣立って“空き巣”になった!≫


さて人間の方も、14日の閣議で「安保法案」を閣議決定した。
祖国防衛の意気に燃えて防衛大に入校したのは昭和34年4月であった。
当時は大江健三郎とかいう物書きが、我々のことを「同じ世代の恥辱だ!」とまで罵り、5月のメーデーではデモ行進する労組“御一行様”から、「税金泥棒!」だとか歩行に合わせて「オイッチニ!」などとハンディマイクでからかわれた。私は「今に見ていろ!」と唇をかみ、「空軍大尉になるころにはこの国もまっとうな独立国になっているはずだ!」と自分に言い聞かせた。

≪昭和34年当時の防大全景≫


38年3月、防大を卒業して奈良の幹部候補生学校に入ったが、世情に変化はなかったものの、私は念願のパイロットコースに入ることが出来て、大きな人生の目標に向かって進みだした。
昭和41年1月、念願のウイングマークを受領、戦闘機コースに入り、その年の夏に築城基地に赴任し、スクランブル任務に就いた。

44年7月、空軍大尉(1等空尉)に昇任したが、任務は厳しくなりつつあったものの、国は独立の気概を忘れ「商農工士」そのままに、軍の地位は低下する一方だった。「何かが違う…」そう感じ始めたが、諸先輩も泰平に慣れてしまったのか、栗栖閣下のみが一人気を吐いていたような気がする。
その後そこそこに階級は上がったが、立場は一層低下しているような気がしてならなかった。所詮“戦わない軍隊もどき”の悲哀を味わい始めたのもこのころであった。
特に三沢や沖縄で、米軍という「本物の軍隊」と付き合うことになったから、一層気が滅入ることが多かった。
“同盟国”の軍隊と共存しながら、助けてもらうばかりで、こちらが手を差し伸べることを禁じられていたからである。
上級幹部はさておき、下級幹部、とりわけ下士官たちには、これがかって太平洋戦域で特攻隊まで繰り出して死に物狂いの抵抗をした、あの日本人の末裔か?と我々に疑問を抱き始めたからである。


平成3年1月、湾岸戦争が始まった時、私は三沢基地司令だったから、なおさらその格差に無力感を感じたものだ。

≪当時の米国新聞に掲載された漫画≫


そして最終的に沖縄に「飛んだ!」が、そこでは国内騒動初め、尖閣をめぐる紛争が次第に本格化し始めていた。
わが最高指揮官の橋本総理は、尖閣に侵攻すると息巻く国民党軍OB(台湾)に対して、私の任務である「領空侵犯をさせないための作戦行動」を取ろうとした時、「武器は使うな!」とのたまった。
そのセリフは「相手」に言うべきセリフじゃないのか?

そして翌年(平成9年7月)私は沖縄で制服を脱ぐことになったのだが、牛島中将の無念を体験することになった。部下を“戦場”に残したまま独り“復員”したからである。


その後は自由の身になったから、国民の国防意識の高揚を図る一助となるため、誘われたらあらゆる機会をとらえて積極的に言論活動をすることにした。民間憲法臨調、拉致被害者救出…などなど、現役時代には考えられもしなかった方面で、多くの先人たちから薫陶を受けたが、事は一向に進まなかった。
岡崎久彦元大使とともに、安保研究活動に入ったのもこのころである。
一時大使も「研究所をやめようか」とまで気落ちされたことがあったが、自衛官OBたる私は「憲法は無理だとしても、集団的自衛権問題だけは解決しないと死んでも死にきれない!」と言ったのはどなたでしたか!私らはそれを信じてついてきたのです!と詰め寄った。


あれから10数年たつ。歪な無安全国・日本を少しでもまっとうな国に近づけたい、という岡崎氏の活動は地道だったが真剣だった。そしてにじり寄ってくる目立ちたがり屋を「ぶれる!」と見抜くと相手にされなかった。
その岡崎氏も昨年10月に他界された。
今頃黄泉の国で「よかったね!」と笑っておられることだろう。


第1次安倍内閣時代とは打って変わった安倍首相の行動には、何か大きなご加護があるように感じられる。保守派の中には長州閥云々する者もいるが、保守派の悪いところは身内同士で足を引っ張りあうことだろう。
左翼はもっと凄まじい内部抗争(内ゲバ)をするが、明確な敵には一致団結する特徴がある。保守派も見習うべきじゃないか?


今朝の産経の「主張」は「安全保障法制 国守れぬ欠陥正すときだ 日米同盟の抑止力強化を急げ」としてこう書いた。

≪ 安全保障関連法案の閣議決定後の会見で、安倍晋三首相は「時代の変化から目を背け、立ち止まるのはもうやめよう」と語った。

 日本は国民の命と平和な暮らしを守りきれるかどうかの岐路に立っている。現状では日本国民を救う活動を行う米軍が攻撃を受けても、助けることができない。

 法制上の欠陥を、これ以上放置しておくことはできないという首相の認識は極めて妥当である。

 日本を取り巻く安全保障環境は著しく悪化している。首相は北朝鮮弾道ミサイル核兵器の搭載への懸念をはじめ、多数の国籍不明機の接近も率直に指摘した≫
とし、「時代の変化に向き合え」「制約より活用の議論を」と至極まっとうな意見を書いた。

その中で、
民主党が「安倍政権が進める集団的自衛権の行使」との限定をつけて容認しないというのは理解に苦しむ。将来的な容認の余地を残しているつもりであれば、どのような条件なら行使が可能となるのか、代案を示しながら議論に臨むべきだ≫
とくぎを刺したが、彼らは「もっと時間をかけて丁寧に国民に説明すべき…」というものの、これだけ縷々解説されてきても未だに理解できないということは、相当頭が○いか、鼻から論議に入ろうとしていないか、どちらかだろう。あるいは日本人じゃないのかもしれないが…


「主張」は、
≪有事に至る前のグレーゾーン事態をめぐり、領域警備法の制定を唱えているのは一部評価できる。さらに視野を広げ、集団的自衛権を含め日米の絆を強めることが、同盟の抑止力をいかに高めるかを論じあってほしい。

 民主党などが「政府は国民の意見を聞かず勝手にやっている」と批判するのは、反対のための反対としか言えない。

 昨年7月の閣議決定から同年12月の衆院選の論戦を経て、法案づくりの与党協議は正式なものだけで25回を数えた。国会での質疑も事実上、行われた。

手続きの瑕疵ばかり言うのは、時代の変化に目を背けることにほかならない≫

と締めくくったが、彼らのような“おためごかし”にどれほど我が国の国防力整備事業が阻害されてきたか、思い出すがいい。
そんな連中が高齢になると「勲一等」に列せられるのだからこの国は異常である。それで「公器」高齢者のつもりか?


何はともあれ、岡崎元大使が命を懸けた国家安全保障問題が一歩前進したことは実に喜ばしい。


昨日は、たまたま中国の研究者が来所したので、研究所に出向き意見交換したが、AIIBはじめ理解に苦しむ点が多かった。

話を聞いていて私が感じたことは、現シナ政権の戦略が、旧ソ連(スターリン)の戦略に似ているということであった。


1925年、トロッキーから権力を奪ったスターリンは、風雲急を告げる欧州情勢を睨んで、ヒットラー・ドイツとの開戦が避けられないことを悟ると、2正面作戦を回避する戦略を開始した。
1937年、中ソ不可侵条約を締結し、まず南方の安全を確保。中国共産党を取り込み西安事件を起こさせシナ事変を画策、蒋介石の対毛沢東ベクトルを日本軍に向けさせ、やがて盧溝橋事件を引き起こさせた。
1939年5月、それでも疑い深いスターリンは、日本軍の出方を探るためノモンハンで事件を起こし、日本側に侵攻の意思がないことを確かめた。
驚いたことにその年の8月には独ソ不可侵条約を締結したから、まじめなわが国の首相は「複雑怪奇」といって辞職した。そしてその直後にドイツがポーランドに侵攻、ソ連も東側を占領したのであった。
このころ我が国は、日独防共協定を日独伊防共協定に拡大し、やがて3国同盟に進化させた。そして日米開戦に突き進む。
こんな流れを見るだけで、当時のわが国外交がいかに視野狭窄症に陥っていたか想像できるが、そんな歴史を振り返っているだけでは進歩はない。
つまり、ソ連に代わってアジアに出現した共産主義国・現代中国の意図が、これに酷似しているといえないか、ということである。
ソ連は、日本軍の出方を見るためにノモンハンで事を起こしたが、これに類似するのは尖閣事案だろう。“専守防衛”に徹して全く手をだす気配がないことを確認したシナは、南シナ海に目を向けて、サンゴ礁を埋め立て飛行場建設を急いでいる。この空域の制空権を取ろうというのである。
同時に経済不況がうわさされている中国としては、のどから手が出るほど金が欲しい。そこでなりふり構わず金集めに走っているのがAIIBじゃないのか? もちろん表向きは「焦ってはいない。金は潤沢にある」という演技をしているが。
スターリンソ連がシナやドイツ、日本と不可侵条約を締結したように、周辺諸国を安心させようとしているように見えて、私は「狼と赤ずきんちゃん」を思い出す…。
それに翻弄されているのがEUのように見えるのは考え過ぎだろうか?
シナは、EUの指導者たちは小粒で、決して一枚岩ではないことを先刻承知なのだ。

このように、中国の戦略ベクトルの方向はスターリンヒットラーを意識したように西にあるとみていいのではないか?
一時話題になった「西進戦略」である。国民生活の不公平をなくすため、特にインフラ事業で遅れている西方を開発する…
今やEUには「黄禍論」さえ知っている指導者はいないように見える。

「一帯一路・・・」本当だろうか? 国民の農地を取り上げ、人権無視を平気でやる政府が、本気で遅れている少数民族のために新しい“シルクロード”である新幹線や高速道路を作ってやろうとするだろうか?
共産党幹部自身が、個人的に「国家予算に匹敵する」ほどの金を外国に持ち逃げしているくせに。
その金を没収して人民のために使おうとなぜしないのだ?
その前に、法輪功などに加えている人権無視の迫害をやめるべきじゃないか?

最後に私は「現在政権や軍内部で起きている悪の根源を断つための大粛清は、中国5000年の歴史の中で特筆に値する出来事じゃないか? 一人勇敢に戦っている習主席は非常に勇気があると思うが」と彼に質問すると、彼はこう言った。

≪このような例(政敵の粛清)は中国の王朝末期の歴史にはよくありました。清も明も政権末期に起きています…≫

この言葉をどう理解すべきか。私には愈々「共産党政権も終末期にかかっているのだ」というシグナルに聞こえたのだが。


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≪東アジア戦略概観2015=防衛研究所編≫
一流の専門家が、それぞれ分担して2014年の東アジア情勢を分析したものである。


≪SAPIO6月号=小学館¥700≫
少々時機を逸したが、タイトル通りの内容で、シナ人の本心をついている。しかし相手は共産主義専制国家であり、北朝鮮と同類とみてよかろう。
結局19世紀末の列強からの侵略におびえたトラウマが抜け切れてないのである。大国であったばかりにその独特な「中華思想」は欧州列強の武力でいいようにあしらわれ無力感を味わった。その恨みが消えないのだが、今度は白人ではなく、同じ黄色人種である「小日本」に日清戦争で負けたことがこれまた特殊なトラウマになっているとみてよかろう。白人種には立ち向かえない弱みが、反日に集約されて、劣等感=反日=国防戦略になっていると言っては言い過ぎだろうか?

そこをよく確認して彼らと付き合わないと「友好」だけでは収拾がつかなくなる落とし穴が見え隠れしている。

講演会のお知らせ
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【第24回軍事評論家・佐藤守の国防講座】

軍事評論家としてブログやチャンネル桜などで活躍中の当会顧問・佐藤守
が「国防」を熱く語る連続シリーズの二十四回目です。

昭和12(1937)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に
向けて何者かが発砲する事件が起き、翌日には支那軍と戦闘状態になりまし
た。日本は不拡大方針をとって、すぐに局地解決を図り、現地停戦協定も成
立しました。つまり、日本には中国と戦争を始める意思は全くなかったのです。

こうした史実にもかかわらず、この盧溝橋事件こそが軍国主義日本による謀
略であり、支那事変の発端であり、大東亜戦争の導火線であるという「日本
侵略史観」が、終戦から70年目を数える今なお、教育界やマスコミで大手
を振って流布されています。

今回の国防講座では、銃声一発に始まったこの大東亜戦争の原点ともいうべ
き盧溝橋事件の「真相」について分かりやすく解説していただきます。

脱線転覆を交え、大人気の佐藤節が唸ります。どうぞご期待下さい。


演題:謎の一発〜盧溝橋事件の考証と教訓

日 時:平成27年5月16日(土)
   12:30開場、13:00開演(15:30終了予定)

場 所:靖国会館 2階 偕行の間

講 師:佐藤守(軍事評論家、日本兵法研究会顧問、元南西航空混成団司令・空将)

参加費:1,000円(会員は500円、高校生以下無料)

お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp FAX 03-3389-6278
件名「国防講座」にてご連絡ください。
なお事前申込みがなくても当日受付けます。

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