軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「終戦の詔書」に残る深い傷痕 

 今日の正論:戦後70年に思う欄に、小堀桂一郎東京大学名誉教授が「 『終戦詔書』に残る深い傷痕」と題して終戦秘話を解説している。
 NHKなどでは、先帝陛下の録音盤が出てきたと騒いでいるが、終戦詔書作成経緯こそ見直されるべきじゃないか?


 小堀教授は正論の≪「義命」知らぬ戦後政治≫という項目の中で、
≪安岡氏の胸裡に生じた文案は〈爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ義命ノ存スル所堪ヘ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス〉といふ至高の格調を具へた一節だつた。

 ところがこの詔勅文案が8月14日午後、詔書正文を決定する最後の閣議にかけられた段階で〈義命〉といふのは辞書に載つてゐない難しい語だとの苦情が出て削除され、代つて現行本文の如く〈朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所…〉といふ表現に替へられ、〈万世の為に太平を開く〉といふ究極の字眼はその大前提を失つて宙に浮いてしまつた。

 事情を知つた安岡氏は〈学問のない人にはかなひません〉と長大息したが後の祭だつた。以上の経緯は最近安岡氏の門弟筋の関西師友協会が編纂した『安岡正篤終戦詔勅』(PHP研究所刊)に詳しい記述があるので正確な理解を期したい向は参照されたい。いづれにせよ、この字句の改変によつて先哲の苦心の修辞は台無しになつてしまひ、戦後の政治は〈義命ノ存スル所〉には関心を向けること無く専ら〈時運ノ趨ク所〉に追随して流されるがままになつてしまつた。安岡氏の嗟嘆(さたん)は筆者も心中深く共有するところである≫と書いた。


安岡正篤終戦詔勅』(PHP研究所刊)=小堀教授も「『終戦詔書』成立の舞台裏」と題する一文を書いている=には、昭和37年1月17日に郵政省会議室で行われた、安岡氏の講話が掲載されているが、その中で安岡氏はこう言っている。(一部引用)


≪その詔勅、これは、私か本当に心血を注いで起草の任にあたった。そのうち特に、細かいことはもう言いませんが、私かぎりぎり決着、二つ大きなことを考えた。そのひとつは、日本歴史開闢以来、初めての屈辱の詔勅を、お気の毒にも現天皇がお出しにならねばならない、これは永遠の歴史に残ることであるから、まいった、降参したという悲鳴に相当する勅語は絶対に避けたい。それよりも後世の歴史家が、戦に負けて降参する奴が、さりとは大ぼらを吹いたものだとあきれるような言葉を、さりげなく、学問上の、それもだいたい中国に負けたのであるから、中国の古典に則って中国人自らが腹を立てるよりも、逆さまに驚嘆するような言葉を入れたいというとんでもない野心、野心と言っては言葉が悪いな、日本天皇、日本皇道のために、これを考えた。
 それから、もうひとつは、戦い敗れ刀折れ力尽きて、屈服する降参するのではないと。
勝とうが負けようが勝敗は兵家の常ということが幸い孫子の中にもあるので、勝った負けたというのは歴史的に極めて一時的なものだ。そんなことは問題ではない。日本が降伏するのは勝敗の問題ではない、もっと高い道徳的立場からこうするのだ。
 この二点だけは明確にしておこうということを考えて、非常に苦心して捻出、文字通り捻出しだのが、あの「萬世の為に太平を開く」。これは張横渠という、中国の人ならば、学者なら誰知らぬ者はいない末代の哲人、朱子や陽明の大先輩でありまするが、この人の作った四つの格言がある。その最後のもので、その格言とは、これはみんなよく知っておるかもしらんが、「天地の為に心を立つ」、人間は心の世界を開いたということ。天地のひとつのシンボル、天地は造化、造化が万物を作った末に人間を作って、人間を通じて心の世界というものを天地造化が開いた。これは大きな思想である。(中略)
 つまり、この人の学説を中国流に表せば、「天地の為に心を立つ」。ちょうどこれがいい。そのままの訳語になる。だから、張横渠、程明道と程伊川などと並び称される人だが、この人が、「天地の為に心を立て、生民の為に、生きとし生ける民の為に命を立つ」運命を創造すると。これはつまり、易学だね。それがどうしても歴史及び民族の、先祖の学問、古典に帰らねばならぬ。往ける聖帝、歴史的偉人、その人の学問が絶えておる、常にそういう大事な学問が絶える、その絶える学問を継ぐ。そうして初めて「萬世の為に太平を開く」ことができる。
 雄大な、深淵な思想だと。戦に負けて、実は降伏するのであるが、日本天皇には降伏と言わず、「萬世の為に太平を開かんと欲す」という言葉を入れる。これで初めて、世界の歴史に日本というものがともなって、日本の天皇というのはどえらいことを言うものだなと感服するやつがでてくる。
 それと、負けるのは戦に負けたら降参するんじゃないんだと。勝とうが負けようが、どっちにしても信義に基づいてやめるんだと、これを道義の至上命令と言って、「義命」という言葉がある。義命の存するところ、これで戦をやめると。このふたつは詔勅の中の二本の柱だと。閣議でどんな議論が出ようとも、この二つの言葉だけは絶対に変更してはならん。もしそうするならば初めから作りなおせ、俺は知らん、関与せんと言ってこれを内閣に返してやったら、閣僚どもが、戦に負けて降参するのにこれはなんということだろうかと言って、みんな驚いて、やめようじゃないかと言うたが、迫水書記官長が、やめたら安岡が承知せんと、もう一遍だれかに作り直させいと言ってもそんな余裕も時間もない。
その次に、この「義命」という言葉は聞いたことがないと。おのれ達の無学を棚に上げて、自分が知らんから人も知らんと思っている。学問上の厳粛な言葉を捨てようとしたらしい。そこで迫水氏が、非常にがんばったと称するんだが、どうだかわからんが、ともかくそういうのならばどっちかひとつ、それには「義命」なんて言葉は俺たちは知らんから、こんなものは捨てようと。えらい大ぼらを吹くようだけれど、そんなに言うのならこれは仰せに従おうじゃないかということでこれは入れたらしいんだ。後になって聞いたのだが。(中略)
 そしていよいよ御放送があって、その直後の新聞に、一斉にこの「萬世の為に太平を開く」というとこだけが、特別の大活字ででかでかとどの新聞にもみな出たものだから、内閣の阿呆どもは皆びっくりして、やっぱり専門家というのは違うものだなと、初めて感心したんだが、情けない。
 けれども一方のほうは犠牲にして、「時運の趨く所」となっている、「時運の趨く所」というのは、風の吹き回しということだ。風の吹き回しで調子が悪くなったからおじぎをするっていうことだ。それなら、日本の天皇陛下、皇道哲学にはならん。勝とうが負けようが、運我に良かろうが悪しかろうが、そんな問題ではなく、天皇の良心、厳粛なる良心の命令、カントのいわゆるカテゴリッシヤー・インペラティーフというやつで戦はやめるんだと、こういうことなんです。(中略)
 あとで、迫水君たちに私は言ったんだが、なんだか終戦詔勅を剛修したのは私の名誉のごとく言う、わからんやつがおる。私は反対に考えている。私の千古の永遠の遺憾と考えていると。仮に後世に私と同じような学者がおって、このことを事実に基づいて知ったら、安岡という学者は大学者か知らんけれども博識かも知らんが、「時運の趨く所」なんて言うようでは、日本の国体、天皇というものもわかっておらん。学者としても博識かも知らんが、達識ではない。こう批判するぞということだ、私が後世の学者ならば。だから、これを執ったということは、私にとっては永遠に、この詔勅に私が筆を執ったということは言われたくない、また残したくない、できるならば抹殺してもらいたい、自分を忘れたいと思うくらいだ。(中略)
 その後、終戦後、八月十五日、当時の閣僚が集まって、記念午餐会を開いた。その席に私を招待して、話を聞かせろという。それで初めて私は当時の閣僚連中に終戦詔勅の話をして、せっかくこの二つ、聞けば二つとも削除しようとしたそうだが、まあこれだけ残して「義命」を削除した。
聞けば我々聞いたこともない言葉で、こんなことは国民がわかるはずがないとかいう理由でやめたそうだが、それは学問上から言うなら、極めて普通のことだと。聞いたことがないというのは、それはあなた方が無学だから聞いたことがない、我々には当たり前なんだ、と言ったら、みんなこんなになっておったな。もう、これだけ言うたら胸がすっとしたから、もう二度と再び諸君はもとよりのこと、国民のいかなる者に向かってもこういうことは言わん、と言うて話を終わった。
 散会の時にみな、うなだれてしーんとして、面を上げるものも無かったが、閣僚の中からひとり、当時司法大臣をしていた松阪という人が、代表して答礼に立って、これは非常に謹厳な君子人であった。はじめて深々と頭を下げて、「我々無学にして、御志をさらに解せず、まことに取り返しのつかん失態を演じまして、謹んでお詫びいたします」と言って真剣に詫びられて、これは私に詫びられたってしかたがない、陛下にお詫びしなきゃいけない。あんまりいじめるとかわいそうだから、その辺で引き下がったことである。
 この度はこういうものを皆さんにご紹介申し上げた所以であります。時間が参りましたので、本日の講演をこれで終わります≫


 現代の代議士連中よりもはるかに教養が高いとみられていた当時の閣僚でさえもこのありさまだった。
 今ははるかにこれより質が落ちている“高学歴無教養人”らが、まるで国会をTVの“ワイドショー”のスタジオだと勘違いしてプラカードを立ててお遊戯しているのだ。彼らが「無学」であることは、何かあるとすぐに「有識者懇」に丸投げして自分らは考えず、責任を転嫁することで証明されている。


最も政治家らの無学はわが国だけの現象ではないようで、隣国はもっとひどいようだ。9月に「戦勝記念大軍事パレード」を挙行して、対日“幻の勝利”を祝い留飲を下げるそうだが、これこそ共産党幹部らの無学を世界中に宣伝するようなものだから、日出る国の首相である安倍総理も、同じレベルに見られるから参加すべきではない。


国民は、70年前に終わった戦争は、海洋国・日本が大陸国と手を結んで大敗した終戦記念日だと再認識すべきだ。
3国同盟ではドイツと、更にこともあろうに大陸国ソ連と不可侵条約を結んで裏切られた。その遠因には海洋国家・英国との同盟をルーズベルトによって破棄させられたことにあるが、そんな反省などみじんもなく、今のわが国(特に商売人ら)は再び大陸国たるシナと“友好関係”を築きたいと、焦っている。それは損得勘定から来たもので、安岡氏のような国家百年の計に基づいたものではあるまい。

だから「歴史は繰り返す」のだろうがそろそろ悪縁を切る時が来た。

村山談話河野談話など、“無学な連中”が大陸に媚びて書いた作文は破棄すべきで、これによって名誉を汚された多くの英霊方にお詫びをするために、総理になった安倍首相は約束通り、改めて靖国参拝を実行すべきだ。

靖国神社の大鳥居=インターネットから≫


終戦時の内閣は「安岡氏の高邁な言語」を無学ゆえに削除して、安岡氏はもとより、先帝陛下のご意志をも踏みにじった。

安岡正篤氏=同書から≫


≪御聖断が下った御前会議=新しい歴史教科書(自由社)から≫



現代の政治家?らも、それ以上に今上陛下の御宸襟を悩ませ続けていて、畏れ多いことにご高齢な両陛下御自ら、各地の戦場でご供養なさっている真意が理解できていない。陛下の御心中を察することが出来ない大臣らは、腹を切ってしかるべきだ、と私は思う。

さて、『安岡正篤終戦詔勅』(PHP研究所刊)には、玉音放送と、安岡先生の「終戦詔勅についての講話」がディスクとしてついているから、改めて先人の偉大を知ることが出来る。


尤もシナの共産党連中にこれを聞かせても全く理解できまい。シナ人でありながら漢詩を知らず、書もかけず、ひたすら反日言動と金勘定にしか関心がない官僚や指導者たちには期待できないが、13億もいる人民の中には教養ある人物が潜んでいることは期待できる。
聞くところによると、一連の政争の引き金になった薄キライ逮捕事件は、意外な展開を見せていて、裁判を担当した安徽省の副主席が、7月28日午後、首つり自殺を遂げたらしい。軍の高官も次々と姿を消しているが、これがどう発展するか興味深い。「対日戦勝記念パレード」などやっている場合だろうか?と“心配”になる…

≪薄キライは今???=インターネットから≫


いずれにせよ、当時の“無学な”わが官僚や大臣らは、「道義の至上命令たる『義命』」を削除し、「天地の為に心を立て、生民の為に、生きとし生ける民の為に命を立つ」とする「万世のために太平を開く」の箇所を畏れ多くも「時運の趨く所」と改ざんしてしまった。
「時運の趨く所」とは、「風の吹き回し」ということで「風の吹き回しで調子が悪くなったからおじぎをするっていうこと」だと安岡氏は指摘したが、戦後日本の政治は見事にそれを実践している!


言葉は生きているというが、昨今の日本の政治家らの動きを垣間見ていると、それを如実に証明しているように思う。
小堀教授が言う様に、まさに「終戦詔書」に残る深い傷痕のなせる業だといえそうだが、70年を迎えて各地で先の大戦の真相を知ろうという関心がかなり高まっている機会だから、特に次世代を担う若者たちにはその事実を知ったうえで、改めてご詔勅の録音盤を聞いてもらいたいと思う。 

安岡正篤と終戦の詔勅

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