軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「英霊の嘆きが聞こえる」

今年の8月15日は、たまたま14日のテレ朝が、名もなき若き搭乗員たちと磐田市の住民らの手で国難が救われた「終戦秘話」を放映したから、歴史から消された人々が、戦後71年目に表に現れ始めたことを喜んでいたのだが、先の大戦で散華された250万もの英霊は報われなかった。
首相は「自費」で玉ぐし料を部下に届けさせ、国防を担当する新任大臣は“敵勢力”の圧力に負けたか、戦線離脱という卑怯な振る舞いに出たからである。
気鋭の保守派大臣も、ついに「朱に交わって赤くなったか!」と残念だった。


そこで今日は、数年前の「靖国」に掲載された私の一文を、英霊にささげることにしたい。
原題は「英霊の声が聞こえる」だったが、声を≪嘆き≫に変更した。
時間があればご一読あれ。


≪友人から届いた今年の境内≫

1、首相が英霊を侮辱する?異常さ?
覚えておられる方も多いと思うが、数年前の産経新聞「from Editor」欄の「野口健が聞いた『英霊の声』」の中で、アルピニストの野口氏が遺骨収集事業に取り組み始めた切掛けは、アルプス登山で猛吹雪に閉じ込められ「死を前にして頭に浮かぶのは、懐かしい日本のことばかり。“帰りたい”という思いがこみ上げてきた。海外で戦った日本兵もそうだったんだろうな・・・」と思ったことだとあった。
 幸い帰還できた野口氏は、帰国後熱心に遺骨収集について調べ始め、NPO法人「空援隊」と共にフィリピンに飛び、夥しい数の遺骨を目の当たりにする。ところが日本に持ち帰ることは「国の派遣団にしかできない」と知って無念の思いだった時、「おーい、もう行ってしまうのかい。六十年も待っていたんだぜ」という“声が聞こえた”というのである。
 野口氏は思った。「国のために、家族のために命をなげうった人たちである。なのになぜ、祖国へ帰れないのか」。
 その後、「知名度が高い野口さんが加わったことで政治家や官僚もようやく重い腰を上げ始めた」が、これが「国の命令で愛する家族と別れて戦場に向かい散華した同胞」に対する国の仕打ちなのであった。

 私は「英霊に感謝の念を抱かない」政治家や官僚の異常さを許せない一人だが、彼らは一体誰に気兼ねしているというのだろうか?
 一億二千万余の日本国民の先頭に立つ首相はじめ、政治家達の最重要な使命は、この国のために犠牲になった、多くの英霊達に心から感謝の誠をささげることに尽きると思う。にもかかわらず、例年武道館で行われる全国戦没者追悼式典で日本国の首相は必ず「アジア諸国(旧敵国)に対する謝罪の言葉」を入れる。これは国の命令でこれらの国と戦った英霊達の業績を侮辱する行為であり、ご遺族に対しても不謹慎極まりない行為ではないか。


2、英霊たちの願い
 三島由紀夫の『英霊の声』は、二・二六事件青年将校や、神風特攻隊員たちの霊を通して昭和天皇への痛惜の思いを浮き彫りにした名作だが、事実、野口氏同様、戦場に散った「英霊達」の声を聞いた者達は自衛隊内にもかなりいる。
 硫黄島自衛隊基地ができた頃、“外出”できない隊員たちは、自ら英霊達を本土に帰還させようと自由時間を利用して遺骨収集に当たっていた。そして収集した遺骨に感謝の誠を捧げ、基地の一角に集積して供養し続けていた。
今では厚労省管轄になっているが、実態は野口氏同様、隊員たちが個人的に始めた活動だったのである。しかし、当時はそれを報道してくれるメディアは殆どなかったから、国民に知られることはなかった。
 そんな状態の中で、野口氏同様「英霊達の声」を聞いた隊員は数多くいる。だが、そんなことを「報告」しようものなら、異常者扱いされるのが関の山、口に出すのは「UFO目撃談」同様、信頼できる仲間内だけであった。こんな話がある。


(一)帰国できる英霊の喜びの声が聞こえた!
 硫黄島から本土に帰投しようとした輸送機の離陸滑走距離が異常に伸びた。貨物室は空なのに満載時と変わらぬ「ペイロード(搭載重量)」分の離陸滑走距離だったという。
 上昇中に機長が貨物係りに貨物室の情況を聞くと、貨物係は「貨物室は空ですが、嬉しそうな声で充満しています」と機長に報告したので、機長は直ちにその意味を“了解”し、水平飛行に移った後に操縦室を出て「空の貨物室」に向かって直立不動の姿勢を取り、「本機は本土に直行します。長い間ご苦労様でした!」と挙手の敬礼をしたところ「ペイロード」は通常通りに戻った。この時、その“理由”を察知した隊員たちも皆一様に姿勢を正し貨物室に向かって敬礼したという。


(二)ガジュマルに集う英霊
 こんな実話もある。硫黄島に勤務していた隊員が、来島した元上司の離島に際して、余暇で育てた「ガジュマルの盆栽」を贈呈した。
 その幹部は東京に戻り執務室に飾っていたのだが、やがて体調を崩してしまう。原因不明の病で現代医学でも全く解明できなかったため、遂に夫人が“霊能者”に相談すると、「執務室に置いてある盆栽をすぐに供養しなさい」と告げられ、驚いた夫人が部下に盆栽の有無を確かめ、供養と撤去を依頼するや、御主人は嘘のように回復したというのである。

 霊能者は「ガジュマルの盆栽には多くの英霊たちが憑依していた」と言ったらしいが、日本では「能」や「謡曲」の主題にされるほど、人間の「念=思い」というものは強いものだという証明であろう。


(三)供養こそ救いの道
 所詮人間は「生身」の存在である。愛する妻や親許を離れ、地獄の戦場で無念の死を遂げた英霊達の執念は、生き残った者が丁重に「供養して差し上げる」べきものだと私は信じている。この世からあの世へと御霊をおくる宗教上の作法でもって「引導を渡す」べき任務が、残された者の責務ではなかろうか。
 従ってガジュマルの盆栽の場合も、いったん戦友たちが集う靖国において祓い清めるべきだったろう。同様に氏名不詳であるため「千鳥ヶ淵」に祀られている「無名戦士」は供養するが、共に戦った戦友たちを祀っている靖国には参拝しないという閣僚たちの行為は理解に苦しむ。
 このような愚かな行為は、単なるイデオロギー闘争の一環であり政争の具と化している様に思われてならず、現実の刹那の瞬間しか目に入らない愚者の屁理屈以外の何物でもなかろう。むしろこの様な、旧敵国を意識した行為こそ彼らが忌み嫌う“差別”にあたるのではないか?
 未来永劫、脈脈と続く国家の永続性を忘れたこのような行為に、果たして英霊たちの御霊が救われるであろうか?
 こんな偽善行為が許されていては国家危急存亡の折に「後に続く若者」が育つ筈はない。
 戦没者の慰霊は国民一体となって国の守りを支える精神的基盤であることを、為政者は決して忘れてはなるまい。


3、残された者達の叫び
 現役時代に多くの戦争体験者方が基地を訪問された。基地によっては毎年慰霊祭が行われ、その中では旧軍の戦没者自衛隊の殉職者も、ともに同等に慰霊される。
 しかし、そのたびに参集された戦友方の多くが「自分だけが生き残った」と悔やみ続けられ、碑の前で「許してくれ!」と嗚咽される姿を私は何度も見てきた。先に逝った者も残された者も共に祖国のために戦った戦友であり別離は運命なのだが、むしろ残された方々の悔いと悲しみの方が強いように私には思われた。そのようなとき私は挨拶の中で「亡き戦友の分までも長生きしてください」というのが精いっぱいであったが、その複雑な心情はご本人以外には理解できないことであったろう。
 だから、「靖国で会おう」と笑顔で戦場に散って行った戦友たちと、生き残った者達が分け隔てなく会える「靖国神社」は、彼らに取っては忘れられない友との出会いの場なのであり、ご遺族にとっても唯一心のよりどころなのである。命を捧げた将兵たちと国との厳粛な約束の場、それが靖国なのだ。
 少なくとも、未婚のままで散った若き英霊たちは、年老いたご両親・親族が他界すれば墓を守ってくれる人は「絶滅」する。これはこの世に生を受けたものとして、後ろ髪を引かれる思いではなかろうか?
 だからそれに代わって国家が彼らを顕彰し続ける、それが彼等との約束であったはずだ。彼らに「出征」を命じた国の最高指導者の地位にあるものは、そこに自ら英霊たちの「供養」を執り行う義務が生じることを自覚すべきなのである。
 生き残った者達が先人を慰霊するのは日本国の文化伝統であり、そのシンボルが靖国神社ではないのか?
 その原点を忘れては、日本国の指導者としての資格はないというべきであろう。なぜならば、彼らは既に「物言えぬ存在」なのだから、物言えぬ彼らの心を忖度するのは、生きている我々以外にはいないからである。
 昭和二十年八月十五日、「大罪を謝し奉る」と切腹自決した阿南惟幾陸軍大将は享年59歳、「特攻隊の英霊に日す」と謝罪して自決した大西瀧次郎海軍中将は享年55歳であった。戦後の日本政界を牛耳ってきた方々は、皆はるかに彼等よりも歳上であるにもかかわらず、彼らと比べて風格や威厳に驚くほどの差があるのは何故だろうか?
 勿論、古希を過ぎた私もその一人だが、若くして散っていった諸英霊に対して、いたずらに馬齢を重ねてきた自分が情けなく思われるのである。

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