軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

米イージス艦事故の続報

「米イージス艦衝突」に関して、≪「友よ許せ…」 艦を救うため苦渋の決断 浸水区を封鎖、仲間取り残す恐れ知りつつ≫という産経の次の記事には感動した。


≪【ワシントン=黒瀬悦成】静岡県伊豆半島沖で米イージス駆逐艦フィッツジェラルドがコンテナ船と衝突し、駆逐艦の7人が死亡した事故で、22日付の米紙ワシントン・ポストは、乗組員らが艦の沈没を防ぐため、仲間が取り残されている恐れがあると知りつつ、浸水区画の閉鎖に踏み切ったと報じた。
 複数の米海軍関係者が同紙に語ったところでは、同艦の居住部分に衝突後、大量の海水が流入。取り残された乗組員の救出作業が数回にわたって試みられたが、浸水が激しくなり艦沈没の危険が高まったため、居住部分に通じる水密扉の閉鎖を決めた。この時点では、何人が残されているのかは判然としなかった。

 7人の遺体はその後、閉鎖された居住部分で回収された。水密扉が閉鎖された時点で7人が生存していたかどうかは明らかでない。衝突により艦底付近に開いた穴は直径4メートル近くに達していたという。
 関係者の一人は、危機に直面した乗組員らが「苦渋の選択を迫られた」と指摘。別の関係者は、結果的には今回の程度の損傷で艦が沈むことはなかっただろうとしつつ、乗組員の迅速な行動が被害の拡大を防ぎ、自力での帰港を可能にしたと評価した。
 米海軍は、近く同艦のイージス武器システムのデータから事故の経緯を解析する方針。艦を米本土で修理するため、巨大な重量物運搬船に載せて輸送することを検討しているという≫


この件については後輩の海自OG(ウェーブ)からも次のようなメールが来ていた。
≪USNIによると、7人の殉職者の最年長37歳のGary Leo Rehm Jr.1等兵曹はレスキューの達人で、今回も浸水区画に取り残された6人を救出すべく引き返したところ、他の乗員が浸水を防ぐ為、水密扉を閉めたため、その区画で亡くなられたようです。
水密扉は双方から開放出来る筈ですが、閉じ込められた側には、浸水のため、開放する余裕が無かったのかも知れません。

米海軍の軍法で、この事がどの様に扱われるのか分かりませんが、もし、これが安全守則に則った行為なら、人員が残留している事が分かっていても水密扉を閉鎖することは正しい行為になると思います。・・・≫


人権と人命重視?のわが国では、どんな批判が起きるだろうか? しかしこれは世界共通の軍事の世界の厳しい現実の一端である。




≪犠牲になった7名の米海軍軍人たち。下段の右から2人目:Fire Controlman 1st Class Gary Leo Rehm Jr. 37才、上段中央にYeoman 3rd Class Shingo Alexander Douglass, 25才(日系人?)もいる。合掌 =USNIから≫


 1904年、日露戦争旅順港閉塞作戦で、広瀬武夫が率いる閉塞船・福井丸が投錨して自爆しようとした時、敵の水雷が命中して船底が裂けて浸水し、福井丸は瞬時にして沈没した。広瀬大尉は直ちに乗組員をボートに移して人員を点呼したが、爆薬点火のために船艙に降りた杉野一等兵曹の姿が無かった。
「杉野!!」という広瀬の呼びかけにも答えはなく、3度にわたる船内捜索でも見つからなかったため、広瀬大尉がボートに戻ろうとした瞬間、敵の砲弾が大尉に命中して一片の肉を残したまま戦死した。この実話は終戦までは語り継がれてきたが、終戦後は無視された。
唯一?万世橋駅前に広瀬中佐と杉野兵曹長銅像が残っているはずだ。


読者から、前回イージス艦を皮肉った朝日新聞大阪本社の記者は、女性ではなく男性、しかも文芸部所属だと知らされた。どちらにせよ、どこかひねた記者が多いのがこの新聞社の特色だが、彼はこの産経のレポートを見てどう感じるだろうか?
広瀬中佐の話は知るはずもなかろうが…


話は変わるが、このところ訃報が続く。
歌舞伎俳優の市川海老蔵さんの妻小林麻央さんの死は気の毒だった。享年34歳、別れる子らへの思いが残ったであろう。それを感じ取った海老蔵さんは「今日からパパ ママもやります」とブログに綴ったようだが、心中余りある。
私も中学3年生の時に母を乳癌で失った。息を引き取る間際に、母が父の腕を握りしめ、何か話そうと口を動かそうとしていた表情がいまだに忘れられない。父は「二人は必ず立派に育てるから安心して…」と言い聞かせていたが、たしかにその後父は我々兄弟を“母代りに”育て上げてくれたから、海老蔵さんの気持は痛いほどよくわかる。
歌舞伎役者という仕事と両立だから大変だろうが、健康第一で麻央さんとの約束を果たしてほしいものだ。


6月13日、このブログでも何度かご紹介した「あけぼの」の主幹、門脇朝秀翁が104歳で永眠された。
私は満州や朝鮮の昔話を良く伺ったが、実に記憶鮮明で、疑問があると立ち上がって書籍を取り出しては根拠を示して下さったものだ。
先月末、脳梗塞で倒れられた、と聞いたので心配したのだが、昨年末に御夫人を98歳で亡くされてから、少し気落ちしておられたようだ、と仲間から聞いた。
それでも3月頃、話を聞きに来た若者に「あなた方が羨ましい。支那共産党一党独裁北朝鮮の崩壊が見られるのだから…。私は予言はできても先に目を瞑る」と、元気に語っておられたらしい。
おそらく門脇翁は、この世で与えられた使命を果たされたのだろう。


友人の情報産業専門の知人も、先月車で帰宅した直後、脳梗塞で他界されたという。88歳だった。78歳の同期生も先月逝った。
考えてみれば、私もそこそこ末期高齢者なのだから、いつ逝ってもおかしくはないのだ、と気が付いた。しかし、門脇翁の予言が、実現するのを見てからにしたい、と思っている。
しかし、これからは猛暑の夏を迎える。いつまでも“青年将校”のつもりではいられないことを痛感した。
だが、「フィッツジェラルド」の7名や、麻央さんのように、私よりはるかに若い青年男女が先に逝くことは本当に辛いものだ。
改めて門脇翁はじめ、亡くなった方々のご冥福を祈りたい。

本のPR
==================

≪WiLL8月号≫


毎度おなじみの社会時評が並んでいるが、目を奪われたのは「写真家・熊谷元一の世界・昭和の子供だ、僕たちも」というグラビア特集だ。
私の子供時代にほぼ重なるので、自分の体験を思い出しつつ5ページから23ページまでを一気に読んだ。
そう、あの時代はどこも誰もが貧しかったが、子供には夢があった。その証拠に写真には“健全な笑顔”が満ち溢れている。
中でも特に気に入った一枚を“こっそり”ご紹介するが、熊谷元一写真童画館は長野県にあるという。私も一度見学したいものだ。

≪なかよしこよし 1953年≫




≪「玄洋社とは何者か・浦辺登著:弦書房¥2000+税≫
福岡在の歴史研究家・浦辺氏の新刊である。玄洋社は福岡の中学、高校の近所にあった。資料館もあったのだがすでに消滅した。
私は「大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した」をまとめる時、玄洋社の資料に助けられたが、高校時代にも資料館を訪ねたことがなく、剣道三昧だったことを反省したものだ。
「近代史の穴、玄洋社の素顔に迫る」と副題にあるが、玄洋社もまた戦後歴史から消されたものの一つであろう。
若い方々に目を通してほしいと思う。

玄洋社とは何者か

玄洋社とは何者か

東京の片隅からみた近代日本

東京の片隅からみた近代日本

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した