軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

はや、退官20年目

明日は7月1日、香港返還から20周年を迎えて習主席は香港入りしたが、現地では反対の機運が強いという。

20年前の今日、6月30日月曜日、私は1日付で沖縄で制服を脱ぐことになった。
先週末に上京して、退官者は官邸に向かい総理に挨拶した後、空幕に集合し“慰労会?”に出席する予定になっていたらしいが、緊張する沖縄でスクランブル任務を抱えている以上、たとえ3日とはいえ、部下を見捨てる気がした私は、土日に上京することを拒否して現地にとどまった。
そして明くる月曜日の30日に離任式を挙行し、司令部前で幕僚たちと最後の記念撮影をして、基地を離れた。
先の大戦で、大本営に見放された牛島中将はここで自決されたが、私は幸いにも“復員”できたのであった。

翌1日、防衛庁に出頭して、長官以下に申告して制服を脱いだのだが、あれから早いもので20年経ったのである。


退官前は多忙だった。とりわけ6月17日に那覇港に寄港した英王室ヨットのブリタニア号は、県知事が対応しなかったので、安全確保と歓迎行事はすべて、南混団が主導して在沖縄自衛隊が引き受けたが、3自衛隊で武道の模範展示、親善サッカー大会、陸自1混団ではジオラマによる沖縄戦の戦史教育、そして南部戦跡慰問と彼ら一行を接待したが、夕方には海自の5空群が海軍同士の縁で、バーベキュー大会を催し彼らを慰労した。


6月20日、ブリタニア号は香港に向けて出港したのだが、岸壁には3自衛隊から50名づつの隊員がと列し、空自音楽隊の演奏に合わせて「帽降れ!」で盛大に見送った。

出航に先立ち、艦長室に招かれた私は、そこで艦長からブリタニア号の水彩画をプレゼントされたのだが、それは私が表敬した彼に「胡蝶蘭」を描いた色紙に「ともあり遠方より来る又楽しからずや」と揮ごうして渡したのだが、彼は市販品だと思っていたらしい。
ところが出航の日に乗艦した大使館附海軍武官が、色紙は私の手書きだと教えたらしく、慌てた艦長が艦長室に掲げてあった絵画をお返しにくれたということが後で分かった。
今も書斎に掲げているが、「海老で鯛」とはこのことを言うのだろう。


ブリタニア号は、香港返還式典終了後、フィリップ殿下はじめVIPを本国まで運んだのだが、この日香港を出港するブリタニア号を護衛する20数隻の英国艦隊の写真が新聞に出ていたことを思い出す。

あれから20年経った香港は、ついにシナ大陸に飲み込まれつつある感がするが、一度自由を味わった香港市民は、おそらく共産専制主義的政治手法に抵抗するに違いない。
明日、どんな顔をして習主席が式台に立つかが見ものである。


周辺情勢は政経軍共に急激に変化しているのに、わが国の政治はどんどん退化していきつつある。
それにしても永田町には、議員会館ではなく「治療センター」を設けるべきじゃないか?
すぐ入院する人が多いし… そうか、○○につける薬はなかったか…。
以前「現代史を支配する病人たち(ちくま書房)」を紹介したが、「日本を支配する○○たち」を書くと売れるかも・・・。

都議選選挙もハナから茶番、それでも当選した者は「都民の批判」など無視するのだろう。

あきれた国になったものである。


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≪「丸」8月号」≫

先月号から連続する「柳川大尉とムルデガへの道」は今月号で終了する。
インドネシア独立にまつわる、旧日本軍人たちと、現地青年たちの交流物語である。
私ははるか以前に、当時通訳として活躍したパンジャン中島氏に親しく指導を受け、ジャカルタを案内していただいたことがある。同じく中島慎三郎氏にもご指導を受けた。

このころの日本人は、毅然としていて心に一本の心棒が通っていた。「丸」には貴重な戦史資料が満載されているが、先人の遺徳を崇敬する雰囲気は、この国から消滅しつつあるように思えて残念でならない。

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