軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

大相撲は“国技”か“競技”か?

日馬富士問題が起きて、八角理事長が文科省スポーツ庁長官に報告に行ったとき、ニュース画像で鈴木長官が「アスリートとして恥ずかしくないように…」といったように記憶している。
鈴木長官は“アスリート”出身だからつい出たのだろうが、大相撲は純然たる“国技”である。
辞書によると「アスリート」とは、「運動選手。スポーツマン。特に、陸上・水泳・球技などの競技選手をいう。例えば『トップアスリートが集まった国際大会』などのように…」とある。

日馬富士の引退会見=インターネットから≫


他方、「力士」とは「=力士(りきし、ちからひと)であり相撲をする人間のこと。厳密には、相撲部屋に所属して四股名を持ち、番付に関わらず大相撲に参加する選手の総称。相撲取り(すもうとり)とも呼ばれる」とあり、「相撲はもともと神前で行われ、日本固有の宗教である神道にもとづき神に奉納される神事である。力士とは四股名を持ち、神託によって神の依り代になり特別な力(神通力)を備え、神からの御利益のある特別な者である」とされている。
それにしてはなかなか“開けて”いたようで、1891年(明治24年)には、外国人力士である「佛國力士關王繁仙」、あるいは「米国の力士關王、繁仙」などが相撲興行に参加したとされているが、力士になるための条件に「日本国籍であること」という規定がないためらしい。だから、外国籍を持つ者が力士になることもできるというわけだ。


何も、今話題になっているモンゴル出身力士にこだわることはなく、近代においてもハワイ出身力士が、活躍していたではなかったか?
勿論育った国がらからくる≪文化≫の理解度は異なるが…
国籍にこだわらなかったのは、神々の御前に人間は平等だという観点からかもしれないが、相撲自体は日本の国技であり“神事”であることに変わりはない。

しかも国技であるとはいえ、そのルーツを探ると、古代イスラエルが発祥の地だという説さえある。
日本においては古事記の国譲りの神話において二柱の神様が力比べをしたのが相撲の起源とされているので、現在でも天覧相撲が行われていることでわかる。


言うまでもなく、単なる力比べの域を出て、天下泰平、子孫繁栄、五穀豊穣、大漁などを祈願する神事として大和民族に継承されてきたものであって、相撲は単なる“格闘技”ではないのである。


その証拠に、各場所の初日前日には土公神(その土地に住まう名もなき神々)を祀る土俵祭りが行われ、土俵中央には神札が埋められ神々が降りてくる目印となる4本の白幣が屋根の房の内側に付けられるのだが、今では見物衆の都合と力士の安全上、柱は取り除かれ、柱の代わりに、方角と神を表す4色の房がそれに代わっている。
取り組みの前に塩をまくのも、土俵の穢れを祓う神事を表しているのだが、今では見物集を喜ばせる“個性あふれる?”力士のパフォーマンスとしての“撒き方”になりつつある。

横綱が締めているのは神社で見られるしめ縄であり、御神木同様、神の依代、つまり横綱は神が寄りつく人であることを示しているのだ。


行司が持つ軍配には太陽と月が描かれていて、陰と陽を象徴しているのだ。これは「陽極まれば陰となし、陰極まれば陽となす」という陰陽説で、相互に作用しあって変化や発展を生み出すという≪宇宙の原理≫を表したものだという。

最後に行われる弓取りの儀式も、陰陽道によれば、怨霊調伏の方術と言われ、取り組みの後もまた土俵を祓い清める神事である。

つまり、相撲は単なる格闘技ではなく、「天に至る道」に沿うものでなければ国技としての存在意義はなくなるだろう、というのが、最近の相撲界の不祥事を嘆く友人の陰陽師氏の言葉である。


そういえば、気になるのが「四股名」を軽視?して、俗名のまま土俵に上がる力士が目立つことだが、おそらく相撲を“興行”と勘違いしている親方の無理解のせいではないか?

一日も早く日本大相撲協会は、本来の姿に戻ってほしいものである。
今のままでは、あることないこと先走って、興味本位に記事を世界中に垂れ流して“儲けている?”メディア界の犠牲になってしまいそうだから…。

陰陽道 呪術と鬼神の世界 (講談社選書メチエ)

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