軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

かかる軍人ありき=「凄惨・壮絶を極めた第3次ソロモン海戦の白昼雷撃とその後」

 江東区富岡八幡宮で7日起きた殺傷事件は、神社関係者が犯人と被害者というのだから、何とも言いようがない。氏子たちはあきれてものも言えないだろう。
 高級官僚である元文科省事務次官のあきれた行為と言い、何でこのような低俗な人間が出世するのか? 頻発する教師らのわいせつ事件や、人の上に立って“導く”使命を持つ大人たちのふしだらな行為には「世も末だ」と慨嘆する。


ところで76回目を迎えた今年の12月8日は、比較的穏当な記事が目立った。それもその筈、日米開戦の裏には、コミンテルンの謀略があり、ルーズベルトも、近衛文麿も見事にその手に引っかかったというのが、真相に近いことが徐々に判明してきたからであろう。


6年前の2011年12月、雑誌・SAPIOは「日米開戦70年目の真実」を特集した。リードにはこうある。

≪12月8日(現地時間7日早朝)、日本が真珠湾を攻撃してから今年で70年目を迎える。
 日本が圧倒的国力を誇る米国に対し、短期決戦で挑んだ奇襲作戦だったが、その後、戦争は3年9か月にも及ぶことになる。戦後、この戦争をアジアの小国が米国に挑んだ「無謀な戦争」という認識が通説となった。一方でこの戦争を「欧米の帝国主義によって追い詰められた戦い」と捉える見方がある。戦後の「自虐史観」の反動としてこれを支持する声は少なくない。
最近、連合艦隊を率いた山本五十六の関連書籍が多数出版され、年末には映画が公開される。不安定で先行き不透明な現状にどこか似た“開戦前夜”に対する関心は今も高い。しかし、70年の風雪の中、その「真実」の一端を語る当事者は確実に少なくなっている。
 真珠湾の空を飛んだパイロット、当時の市井の人々の声、そしてGHQ焚書された戦前の図書。これら貴重な証言や資料から、当時の人が何を考え、何に突き動かされたのか、改めて検証した。日米開戦の秘話とともに、日本人の中で風化しつつある「開戦」の記憶に新たな光を当てる≫

SAPIO・2011・12・28号から≫

私は、日米開戦を“全く意識していなかった”当時のわが指導部の恐るべき怠慢(準備不足)と、その背景にあったわが外交力の貧弱(情報の収集と分析力)さが、国家的悲劇を招いたと考えているのだが、その結果、多くの国民が犠牲になった。


今再び、半島情勢は混とんとしてきて、日本海側では、公然たる準軍事的攻防が展開され、国際情勢は再び「開戦前夜」の様相を呈しているにもかかわらず、ほとんどの国民は、垂れ流される無責任な“バラエティショウ”の方に現をぬかし、危機感を感じていないことには驚くばかりである。

6年前のSAPIOは「山本五十六率いる連合艦隊が決戦を期した『12・8』。真珠湾へ向かった日本人たちの『秘史』に光を当てる」と書いたが、“一年程度暴れて”見せて戦死した山本長官の無責任さもさることながら、ただ一途に命令に従って、はるか南方の前線で、与えられた使命を果たし、黙々と逝った多くの将兵たちの活動の実際は、ほとんど受け継がれていない。
 そこで上層部による拙劣な情報入手と分析によって、まんまとコミンテルンの罠に陥ったせいで、どれほどの国民が悲劇に遭遇したかに焦点を当て、死地を脱して、奇跡的に生き延びた一海軍士官の手記をここに転載したい。


 一般的には、有識者が編纂した“戦争史”が、“戦争の実態”を示しているかのごとく思われているが、この手記のような生々しい事実が「戦場の実相」であり、指導者たちが引き起こす“戦争”ののしりぬぐいをさせられるのはいつも“軍隊を支える国民”だという事を若い方々に知ってもらいたいし、歴史は、有名な指導者たちによって、華々しく作られたものではなく、このような庶民の犠牲によって積み上げられたものだからである。


「凄惨・壮絶を極めた第3次ソロモン海戦の白昼雷撃とその後」(福地栄彦大尉遺稿) 

  
 昭和十七年十一月十二日、例によりガダルカナル島爆撃の為、早朝真っ暗いうちに飛行場に出て、爆弾、燃料搭載の出発準備を整え隊長に報告した頃は、もう人の顔かうすうす判るようになっていた。明日を約せぬ我々にとって、朝食前の一服はまた格別、誰も黙して朝の微風に乗って、吸い込まれるように昇ってゆく紫煙の行方を見つめている。


爆装から雷装への転換
 突然、朝の静寂を破り指揮所がざわめきたった。我々より三時間前に出発した偵察機からの報告だった。
「敵大型輸送船、約十数隻の巡洋艦駆逐艦に護衛され、ガ島ルンガ岬に停泊中」
指揮所には異様な緊張がみなぎった。すぐ司令部から「雷撃即時待機」の命令が出る。
司令の沈痛な顔つきに引きかえ、地上勤務員の歓声、余りにも地味な長い間の地上作業に対する鬱憤か。昼間の雷撃では生還は期し難い。特に敵航空基地の眼の前である。
「チェッ!到々来やがった」
 ひげ面の搭乗員がつぶやく。
 純情一徹な山本兵曹が胸の内ポケットから写真を出して、一瞥して細かく千切って空に投げた。重慶作戦頃から肌身離さず持っていた恋人の写真だった。一切を清算して死に向かう彼の淡々たる横顔。ふっと肉親の面影が脳裏をかすめる。
「俺逹は生きて内地へ帰れるなど夢にも考えられない。どうせ死ぬんじゃないか。半殺しみたいな毎日の生活より、いっそひと思いの方が却っていいぜ。」
それらの思いを打ち消すように大声でS兵曹が言う。



≪指揮所前に集合した搭乗員ら=大東亜戦争海軍作戦写真記録から≫


 当時、ガ島の味方の陸軍は、飛行場奪還の為、敵前上陸した一木聯隊が全滅し、続いて那須旅団が全滅したので強力な仙台の丸山師団が上陸し、マタニカウ河付近より幾多の尊い犠牲をも顧みず、敵飛行場に突撃を繰り返した。
丁度、敵は浮き足たった所で、千戴一遇の時であったが、後援部隊が続かず極めて重大な時機であった。
 この際、敵輸送船団のルンガ入港成功の場合、味方陸軍の血の犠牲は水泡に帰するばかりか苦境に追い詰められる運命にあった。我々海軍航空隊は、いかなる犠牲を払っても、この船団を撃滅せねばならない。
 私も覚悟はしたものの心の底の動揺は、どうしても静まらなかった。太陽は東の空に昇り始めた。魚雷員が土煙を立て魚雷を五本・六本づつ牽引車で運ぶ。指揮所では隊長らが攻繋隊の編成に大童である。各航空隊共、連日の攻撃で殆ど消滅していた。


1式陸攻二〇機とゼロ戦三〇機の出撃

 私の七〇三空でも、各中隊のものを集めても可動機は十機くらいであった。結局、一個中隊九機を編成して私か中隊長に任命された。そして攻繋隊の編成は、七〇五空第一中隊八機、七〇三空第二中隊九機、七〇七空第三中隊三機、総指揮官七〇五空飛行隊長中村友男少佐。最後の雷鑿隊の編成が出来た。一式陸攻二〇機とそれを掩護する零戦三〇機だった。
第二中隊長機三七三号機の搭乗員は主操縦の私、副操縦員阿部飛長で東北出身の無口な芯の強い、いい男だった。偵察員で小隊長、歴戦の士である菅谷飛曹長、爆繋手で機長の甲飛出身、長身でインテリ臭さと野生味を感じさせる羽根田上飛曹、色白のナイスボーイは搭乗整備の松平三整曹、それに電信員は何れも通信学校卒業、成績抜群の紅顔の美少年、谷口、永田両飛長、後部二十粍機銃射手、関口飛長の八名であった。
 妻子のある武石兵曹は搭乗割から削った。死出の旅路に妻帯者は不向きだったから…。
武石兵曹は毎日生死を共にしてきたペアーと離れて残る無念さと、喜びが描く複雑な顔をして我々を送ってくれた。「これでいい、これでいい。」


≪指揮所前の状況=同上から≫

 スルスルスルッと朝風を切って集合の旗旒信号が揚がる。七〇五空司令の命令と注意があった。熱烈なる語調であったが、心から耳を傾けて聞いている者はなかった。この一瞬各自各様の思いに耽っているのだろう。
 〇〇時、全機飛行場を蹴立てて出発した。私は地上にいた時、どうしても朝食が喉を通らなかったが、空中に飛び上がると空腹感を覚え、甘い航空糧食がうまかった。
 高度三五〇〇米、ブーゲンビル島北方を迂回して進む。偵察員より「戦場到着は〇〇〇〇時」の報告あり。あと〇時間足らずの寿命。電信員が傍受電報を報告する。

ラバウルを発進した1式陸攻の編隊=同上から≫

「六隻の敵巡洋艦防空巡洋艦のごとし。」
 高角砲の数を胸の中で数える。又、傍受電報がくる。
「一中隊の一機我エンジン不調引き返す。」
 機首を反転、ラバウルに向かう。死神に見離された幸運な奴。
 ショートランドに近づいた頃、私の右エンジンより白煙を吐き、一時爆音不調となった。引き返すのは今だ。搭乗員と私の眼が期せずして一致した。
 後ろを見れば列機八機が一トン近い重い魚雷をしっかり抱いてぴったりくっついて来る。「そうだ、俺は中隊長だ。卑怯な真似はすまい。」


≪攻撃編隊=同上から≫

 私は私の心の動揺を恥じ、再度決心して一路ガ島へと向かった。時計の針は刻一刻と我々の命を縮めて行った。時が経つにしたがって、不思議と気持ちは落ち着いて来た。イサベル島を通過する頃は、丁度演習にでも行くような軽い気持ちになっていた。
 我々攻撃隊の行動は敵の電探にキャッチされていると思った。それがため、ツラギを迂回し、敵艦を東方より西に向かって攻撃し、そのまま真っ直ぐに基地に帰還する予定を立てた。
「五〇〇番、五〇〇番、こちら一一一番、合戦準備をなせ」
 指揮官機よりの無線電話である。「一一一番、一一一番、こちら二一一番、二中隊合戦準備宜し。」

 敵艦近きに全員思わず緊張の色現わる。生まれて二〇有余年、最後の総決算である。指揮官機はだんだん高度を下げ速力を増し、雲・スコールを巧みに利用して接敵する。
敵戦闘機はどう間違えたのか、まだ一機も姿を見せない。「幸先よし。」
 ガ島の山々は次の瞬間の出来事を予期してか、じっとかたず呑んで我々の行動を見守
っている。

≪合戦準備に入る編隊=同上から≫


敵輪型陣に突撃
 やがて我々は、最後のスコールを出た。いたいた! 右後方約一三〇度、輸送船団を中心とした輪型陣。直ちに指揮官機より突撃命令が出た。敵との距離四乃至五万米。
 既に戦策で打ち合せていた如く、第一中隊が中央より、私の第二中隊が左より、第三中隊が右側より、一目標に吸い込まれるように突っ込んで行った。速力も制限速力に達している。両翼が微妙に震える。三七三号機ももう少しだ! 空中分解をしないで頑張ってくれ! 心に念じつつ、もっと速力を出す。二八〇ノット、計器盤の針が徴妙に動く。私の中隊は右旋回で他の中隊より遠回りをして攻撃地点に付かなくてはならないため、こんなに増速しても他中隊の攻撃に遅れがちであった。


≪射線につく攻撃隊=同上から≫

 「−・−・−・−・」
 敵旗艦よりC連送発信号が始まった。
 敵との距離約一万米くらいに達した頃、敵の主砲が一斉に火を吐き始め、眼下に落下、椰子林のような水柱が上がった。
 八〇〇〇米、高角砲も駆逐艦も発砲する。抱いていた魚雷に直撃弾を受けたのか、一瞬こなごなに四散するもの、水柱に引っ掛かって機体もろ共、真っ逆さまに海中に突っ込むもの、私も殆ど夢中でただ「南無妙法蓮華経……」お題目を唱えながら突撃した。
「ガタン」すざましい異様な音がした。
思わず振り返った途端、左エンジンに高角砲の直撃弾でも受けたのか、プロペラが空転しはじめた。このため速力はどんどん落ちてゆく。

≪敵艦、対空射撃開始=同上から≫


≪超低高度を肉薄する攻撃隊=同上から≫


 一八〇ノット、だか何とか魚雷だけは無事発射せねばならぬ。四〇〇〇米くらいに来た時、猛烈な機銃弾の弾幕に見舞われた。アイスキャンデーのような真っ赤な曳光弾が雨のように撃ち出され、皆それらが自分の方に吸い込まれるような気がした。我々の飛行高度は約十米。
 海面はあたかも小砂利を握って水面に投げこんだ如く、機銃弾で真っ白いしぶきが一面に拡がっていた。こんな物凄い弾幕で命中しないのが、むしろ不思議である。私の片肺機も機銃弾で蜂の巣の如くなっていた。遮風板も計器盤も無茶苦茶に破壊された。
 火砲は益々激しさを増し、砲煙のため四囲は曇天の如く薄暗くなった。友軍機も遂に半数くらいになったか、あちこちの海面に紅の焔が盛んに燃えている。
 一中隊は発射終了したらしい。今まで真っ赤な焔に包まれて突撃していた何番機かは、発射終了と同時に機体を敵艦橋にぶっつけたのか猛烈な火炎があがる。
 方位角で七〇度、敵速三ノット、絶好の雷鑿態勢である。
「距離一五〇〇米、一二〇〇米、発射用意!・投下!」

 ガクーン、鈍い索のはずれる音。任務終了、瞬間ホットした思いがしたが、同時に、さて、これから何とか戦場を離脱しなければならない。
 操縦輪を握る私の手に皆の眼がそそがれる。しかし、敵前五〇〇米、しかも片肺、絶対絶命である。
 前方で、羽根田上飛曹だけは、まだ機銃を撃ち続けている。曳光弾が敵艦に吸収されて行くのは最後のあがきのようであった。


≪1式陸攻の銃座=同上から≫


 私は中央突破を企図した。大きな図体で僅か一一〇乃至一二〇ノットでフラフラしているのは、集中攻撃の好目標となったが、幸い距離が接近し過ぎていたためか、却って命中弾は比較的少なかった。
 中央の輸送船上を通過し、外環の巡洋艦の舷側を飛んでいる時、我々の愛機三七三号は最後のとどめを刺されてしまった。

 グラマン数機に取り付かれてしまったのである。数門の機銃が次々と一点に撃ち出される。 アイスキャンディは幾条かの線をなして飛んで来る。その幾条かは、喘ぎながら全力で回転している右エンジン、一〜二番タンクを真っ赤な焔で包んでしまった。
 グラマン一機、火を噴きながら、私の真っ直ぐ前の海面に突つ込んだ。関口飛長が射止めたのであろう。
 速力は目立って落ちるような気がしたが、もう既に速力計も破壊されていた。突然、私の左側にいた阿部副操縦士が腹を抱えてのけぞった。やられたか!
 私は思わず「しっかりしろ!」と左手で彼の肩を突き飛ばした瞬間、私の左肩に焼火箸が突き刺さったような気がした。       (続く)


≪参考:ガ島周辺戦域図=大東亜戦争全史付図から≫


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イシキカイカク講座のご案内 
https://www.gstrategy.jp/event.php?itemid=1793

来年から、インターネットTVで継続している≪意識改革講座≫が本格的に始まる。私は来年後半を6回受け持つことになったが、そのご案内まで。 

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