軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

蟹漁船、ロシアに拿捕される

 

報道によると“日本海で操業していた島根県カニ漁船「第68西野丸」(115トン)が、ロシアの警備艇に連行された。ロシア当局筋によるとロシアの排他的経済水域EEZ)から極東ナホトカに連行したと言う。

 

自国のEEZは荒らされ放題。現在進行中の日ロ会談に対する圧力の一つだろうが、“平和憲法”を戴く我が国は国家の体をなしていない。

 

整理中の資料に、こんなものがあったからご紹介しよう。

 

まず最初は、「軍艦旗の下の北洋漁業 府本昌芳著(「文芸春秋」昭和31年6月号)」である。

筆者は「昭和十四年、海軍大尉としてハルビンに駐在したが、その後.カムチャツカ漁業係長、在ソ大使館附武官となり、終戦時は海軍中佐.大本營諜報部對ソ班主任」である。

長文なので、「北洋の魚屋暮らし」「“神風”に乗って」などの中見出し項は省略し、後半の「抜き身は禁物だ」の項から概要を記すことにする。

 

【「神風」は、同型の「沼風」「波風」「野風」と共に第一駆逐隊を編成、大湊要港部に配屬されており、私はその副長相当の先任將校となった。

一九二二年に進水した「神風」は、その頃全くの舊式艦であったが、それでもこの騙逐隊こそ、帝國海軍が對ソ兵力として割当てた最精鋭部阪であった。しかも、大湊要港は場末の出店にふさわしく、取り立ててこれという施設もなく、おいぽれ司令官や咸張り屋参謀などが、北邊の守りを固めていた。 ‘

四月になるとカムチャツカ西岸へ向うカニ工船が続々と出で立ち、ソ領沿岸のサケマス漁場へも仕込船が送られる。だが、駆逐隊は盛漁期になるまで、北海道周邊で訓練待機することになっていたので、二冊の暗號書は金庫の奥深くに仕舞い込まれたままであった。(中略)

 

ナ・セーヴェル

 「神風」は千鳥列鳥に沿って北上した。私は自信に満ちて、北海の波の音を聞いていた。「神風」ほど安全な社会はないのだ。私はすべての乗員を信頼し、すべての乗員は私を信じてくれる、と考えていたからである。

エーロフ海峡を過ぎた頃、私は金庫を開けて、例の暗号書を取り出し、自分の机のひきだしに入れると、上甲板に出て、煙突の後の方位測定機室へ上って行った。私はもう演藝係でも、性病予防官でもなかったのである。

「どうだい、とれるかい?」

「ペトロとウラジオはよく入りますが、カムチャツカの沿岸局は。まだ感度がありません……」

「そうか。願います……」

私とX兵曹の二人、二臺の受信器、二冊の暗號書、これがブラック・チェムバーのすべてであった。なかでも、X兵曹の技術は抜群であり、北千鳥に近づくまでには。カムチャツカ沿岸のソ連警備隊の無線局は、全部キャッチすることができた。

駆逐艦はシュムシュ(占守)鳥の片岡灣に着いた。

ここを基地として待機し、いざという時には、四隻の駆逐艦が編隊を組んで行動する、という司令の方針が確認され、従って、ブラック・チェムバーの任務はなかなか重要なものとなった。

私とX兵曹は、日夜受信機に絆神経を緊張させていた。

六月も半ばを過ぎたある日の午後、私は例によって、暗號書を手にして翻訳にかかっていた。突然、私はハッと息を呑んだ。

そこに出ている府字――ザゼルジャンノ(拿捕)――“バリューゾフ地區隊長発ぺトロパウロフスク司令官宛。日本漁船を拿捕す。地點……”

私は飛ぶようにして艦長に報告すると、續いて司令室をノックした。

「司令!拿捕事件が起りました!」

「何?ハリューゾフか?」

八の宇ひげの司令は。ギョロリと目玉を光らせた。

「先任!各艦長を呼ぺ」

私は上甲板に走り去る。

「信號兵!略語のクカラ(駆逐艦長來艦せよ)!」

そう怒鳴ると、私は急いで兵曹のところに行った。

「おい、事件だ!ハリューゾフの電報を落さないように・・・」

「承知しました。今夜は寢ないでやります」

集った四人の艦長は、司令を中心として、ウィスキーで乾杯すると、足取りも軽く各々の艦へ歸って行く。いよいよ出動準備である。

前部發射管の両側に集った水兵員に一応の指示を與えると、私は直ぐ部屋に戻って、暗號の解読を続けた。

 “日本漁船をハリューゾフ河口に抑留す”

 “日本人をーー尋問中……”

どれもこれも癪に障るものばかりだ。

「よし!ノモンハンの恥を雪いでやるぞ」

私は傍にあったチェリー・ブランデーをひき寄せると、グツと一息に飲みほした。

この私の部屋は、“バー神風”という綽名がついていた。私は電気スタンドを、跳ね兎の浮彫りのあるグリーンのシェードのものに替え、二脚の椅子を青森から運び込んでいた。バーにはマダムがつきものだが、これは原節子のプロマイドに勤めさせることにした。

ウィスキーは十二年のサントリーしかなかったが、ベルモットキュラソー等の甘口に、ラム、ジンからアブサンに至るまで、東北の田舎酒屋で買いあさったアチラものが整列していたのである。自慢のバーも、本件が起れば自粛閉店である。私は大事な酒瓶が艦の動揺で壊れないように、丁寧に箪笥の奥に仕舞い込むと、ブリッジに上った。

四隻の駆逐艦は、日本の最北端、国端埼を右後方に残し、白波を蹴立てゝ北上している。

「ナ・セーヴェル(北へ)……」

私はブリッジの当直に立ちながら、ロシア語を口ずさんでみた。

柬に見えるカムチャツカの山々は、白い雪で覆われていた。

 

マストか勳いた!

「先任將校!司令が艦橋でお呼びです」

ブリッジには、髭の司令と日面公子の艦長が肩を並べている。

「先任!ロシア語の釋放要求書は書けたか?強い調子で書いてくれ。ハリョーゾフに着いたら。すぐ行ってもらうからな」

私は傍にいた航海長I大尉に入港準備の作業指揮を頼むと、士官室に下りた。そこではガッチリした身體のM通訳が、釋放要求書を清書している。

「先任將校!こちらの名前は何としますか? 第一駆逐隊司令ですか?」

「いや、えーと、大日本帝国、北洋警備艦隊司令官、とね」

こうして職名だけは立派にでき上ったが、オンボロ艦隊の悲しさ、タイプライターがない。仕様がないから、大和魂のこもった美濃紙にカーボンを入れて、鉄筆で書くというという仕儀になった。おそらく珍重すべき古文書として、今頃はモスクワの赤軍博物館にでも行っていることだろう。

一夜を海上に過ごした駆逐隊は、翌朝ハリューゾフの漁場に着いた。十二哩のソ連領海内に進入し、日ソ漁業協定による使用海面限度――岸から三哩に錨を下した。

内火艇用意!特別臨檢隊員整列!」 

私はこういう場合を考えて、かねて目をつけていた、屈強で明敏なK兵曹、N一等水兵等を随えて、ソ連の漁場に向った。

海は静かであり、漁場は平和そのものであった。最寄りのソ連の漁船に乗りつけて、手紙を渡し、すぐ引き返すつもりで、私も氣輕な気持だった。

だが、見渡したところ、漁船は影も形も見えない。恐慌を来して引き揚げてしまったのか?それともトラブルを避けたソ連側の處置だろうか?力の示威が平和交渉を妨げたような形になってしまった。

止むを得ず、私は一人で“無査證入国”を決意した。軍刀をK兵曹に預け、一同を艇内に殘して、私は砂濱に飛び下りた。丸腰になったことが、無法男のせめてものエチケットだったといえようか。

人の良さそうな中年の漁夫が近づいてくる。「ペレダイチエ」(渡してくれたまえ)

差し出すと、彼は素直に受取ってくれたので、幸いにも無事に艦に戻ることができた。

それから無遠慮なデモが始まった。駆逐隊は日本漁船が抑留されていると思われる河口の沖三哩に一列に並び、昼間は操砲教育、夜は照射訓練で威嚇する。

 

“日本駆逐隊、われを威嚇しつつあり”

“調書を作製せよ”

べリア指揮下のペトロの司令官と、ハリューゾフの地区隊長は、盛んに暗號を交換して、私に情報を提供した。三日目の夕方、私は思わずブランデーの瓶をひき寄せた。

“日本漁船を釋数せよ――司令官”

こうこなくては……と私は‘いい気持になって部屋を出た。

「……帰すそうです、司令!」

司今は例の如く八の宇髭をしごきながら、破顔一笑して、

「先任!デカしたぞ!今夜は一杯飮もうじやないか」

更に次の暗号文で、私は全く安心した。

“明日午後二時釈放す――地区隊長”

遂にその時が来た。私はブリッジに上って、十ニサンチの双胆鏡で岸を見守ってい

た。】

 

国際紛争を解決する手段としての軍事力の使用は、憲法によって禁止されているのだから、今では夢物語である…。

それに”イケメンばかり”で屈強な男も少なくなった…。

 

次はこの資料に添付されていた「救出された漁民の回顧録」(出所不明)である。

 

日本海軍は北洋警備一北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました。

國民性なのでせうか、蘇聯(ソ連)は昔から露骨な国で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯(ソ連)艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました。

だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に派遣することも行はれたやうです。 父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました。

生きて居られればゆうに百歳は超えませう。

明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました。

この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です。

氷涛の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩ウラジオストック)に聯行、抑留されました。此処までは今日と同じです。 取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうです。ありもせぬ犯罪事実の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました。

いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免。

露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか。解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました。

天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです。半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむと、ふらつく脚を海へ向けました。

その瞬間、何故、助かったかが判りました。

沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ。

陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和国聯邦を威圧して呉れてゐたのです。

旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったとでせう。

皆、感泣しました。

鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひでした。ひうらさんは無事、日本に帰りました。

取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大国相手の戦争をも辞せず、瞬く聞に艦隊を繰り出して救出してくれた祖国日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生を遂げられました。

勤倹貯蓄、関東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして生涯穿き続けました。

「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」と言うのが口癖でした。】

 

救われた漁民の心情が実によく出ていると思いませんか?。

「国民の生命と財産を守る!」などと政治家や政府は、口では軽々しく言いますが、守ると言うことはこういうことを言うのです。

全く救いに行かない「拉致被害者たち」はどんな気持ちでいるのだろう…と悲しくなります。

今は昔、「東洋の一小国」がまっとうな国であった頃のお話です…