軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

資料から:北方領土『屈辱の交渉史』

 今朝の産経には、北方領土交渉について「ロシアの体質、ソ連時代から変わらず」とする斎藤勉論説委員の講演、並びに「性急な対ロ交渉は禍根を残す」とする新潟県立大学教授・袴田茂樹氏の『正論』が出ている。
 安倍・プーチン会談がどんな結果をもたらすか不明だが、相手は“くせ者”である。
 ここでは平成28年(2016)年11月25日付の「北方領土・屈辱の交渉史」を参考までに転載しておくが、私が上梓した父の個人的記録も紹介しておこう。


≪父の樺太体験記≫


平成28年11月25日産経新聞
北方領土『屈辱の交渉史』=千島全島勝ち取った榎本武揚
明治政府に入れ知恵したのは・・・
【明治8(1875)年3月8日、ロシアの首都サンクトペテルブルグ(当時)駐露特命全権公使を拝命した榎本武揚は露外務省アジア局長のピョートル・スツレモーホフと向き合った。
 榎本「千島全島を譲るべきだ」
 スツレモーホフ「それは大島たる幌筵島までも望むのか?」
 榎本「幌筵島のみならずカムチャツカまで連なる島々をすべて譲っていただきたい。」
 

 スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本は粘りに粘り、ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。
 榎本がロシア側全権のアレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約の調印を交わしたのは5月7日だった。
 旧幕府海軍の指揮官だった榎本は、箱館戦争五稜郭の戦い)で敗北し、投獄されたが、その命を救ったのは、オランダ留学中に手に入れた「海の国際法と外交」の写本2巻だった。
 明治政府は発足したばかりで外交や国際条約は門外漢ばかり。榎本が所蔵する写本の存在を知った黒田清隆が、知人の福沢諭吉に翻訳を頼むと、福沢は一読してこういった。
「この万国公法は海軍にとって非常に重要だ。これを訳すことができるのは講義を直接聴いた榎本以外にない。榎本に頼めないようでは邦家のため残念だ・・・」
 黒田は榎本の助命嘆願に駆け回り、榎本は明治政府の要人としてその後活躍する。ロシアとの領土交渉はその大きな成果の一つだ。


 北海道の北東洋上に浮かぶ択捉島国後島色丹島歯舞群島からなる北方領土(計5千平方キロ)は、ただの一度も外国の領土になったことはない。その先にはカムチャツカ半島までシュムシュ(占守)島を北端に千島列島が延びる。オホーツク海と太平洋を隔てる地政学上の要衝といえるが、なぜ明治政府がサハリン(樺太)と千島を交換しようと考えたのか。 

 ■ 口 ■
 安政2(1855)年2月、江戸幕府はロシアと日魯(露)通好条約を締結、国境を択捉島とウルップ(得撫)島の間に引き、樺太を「日露両国民の混住の地」と決めた。 
 ところが、ロシアは明治2(1869)年に樺太を「流刑地」に一方的に指定した。
 以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発、殺人事件も起きた。樺太の日本人居留地を守るため国境線策定は喫緊の課題だったのだ。
 そこで白羽の矢が立ったのが、北海道開拓使を務めていた榎本だった。北海道事情に詳しく、国際法にも強い。榎本は渋ったが、黒田は太政官中央政府)に人事案を提起して榎本を無理やり帰京させ、天皇臨席による閣議で駐露特命全権公使(海軍中将)に任命してしまった。


 榎本は明治7(1874)年3月10日に横浜港を出帆し、スエズ運河経由でイタリアに上陸、サンクトペテルブルグに到着したのは6月10日だった。
 樺太を全て領有したい口シア。日本も樺太放棄に異存はない。合致点は見えていたにもかかわらず、交渉は難航した。ロシア側は、樺太で起きた殺人事件の処分など細々とした懸案を次々と取り上げて引き延ばしを図り、本交渉が始まったのは11月14日だった。その後、日本側の交渉方針がぶれたこともあり、交渉は難航し、日露両国では「弱腰外交」という批判が渦巻いた。
 ■ 口 ■
 ロシアから見ると、広大な樺太を捨て、碁石が並んだような千島列島を欲しがる日本の姿は奇異に映ったかもしれない。
 確かに当時の明治政府は脆弱で、樺太を統治する財政的・軍事的な余裕はなかった。だが、それ以上に英国の入れ知恵が大きい。 「日本の国力では樺太開発は無理だ。防衛もできない。千島列島ならば周囲が海なので防衛しやすい」「樺太をこのまま放置すれば、むしろロシアの南下は北海道に及ぶ」「ロシアが侵攻してきても千島列島ならば英海軍が援軍を送ることができる。
 英国は、明治政府の要人にこのようなアドバイスを送り続けた。その元締は駐日英公使のハリー・パークス。「維新の三傑」といわれる大久保利通にも直接働きかけたとみられる。
 当時の英国は「太陽の沈まない国」と称される世界一の海軍国家だ。海洋戦略に長けた英国は、ロシア海軍が将来太平洋に進出することを懸念し、千島列島を日本に領有させることでオホーツク海に封じ込めようと考えたのだ。
 ロシアは幕末の万延元(1860)年、北京条約で中国から沿海州を奪い、ウラジオストクを軍港にした。文久元(1861)年には露軍艦ポサドニック号が対馬浅茅湾に侵入し、島の中心部を占拠。艦長のニコライ・ビリリョフは幕府に対馬の租借」「兵営施設建設」「食料」「遊女」を要求した
 結局、英国の仲裁を受け、ポサドニック号は退去したが、英国はこの頃からロシアの太平洋進出に神経をとがらせるようになる。千島列島と日本列島による露海軍の封じ込めは英国の国家戦略だったのだ。
 ■ 口 ■
 ロシア側で千島列島の重要性に気づいたのは、旧ソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンだった。ロシアは千島列島だけでなく、日露戦争後のボーツマス条約で南樺太までも日本に割譲していた。露海軍が北太平洋に進出しようとしても、この海域を通過する露艦艇は全て監視され、標的とされてしまう。米国に対抗する海軍国家建設をもくろんでいたスターリンにとって千島列島と南樺太の割譲は絶対に譲れぬ「戦利品」だったのだ. 
 樺太・千島交換条約から170年後の昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻したソ連軍は一向に戦闘をやめず、領土拡張を続けた。
 占守島への侵攻は8月18日、北方領土を占領したのは日本が米韓ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日以降だった。】


 元々樺太島間宮林蔵によって、大陸の一部ではなく、海峡で隔てられている島であることが発見されていた。それを強引に自国領土だと主張し、歴史を捏造したのは、ロシア政府であったことは「間宮海峡」と言う地名が残っていることからも歴然としている。
 既に詳細な地図が文化6年(1809)に作成され、シーボルトの「日本」によって世界に公開されている。
 しかし肝心な日本人自身が、この歴史に非常に疎かった。
 現在でも政治家はおろか、研究者たちにも知っている者はほとんどいない。又は知っていても公言しないかだ。

 樺太島が日本領土であった歴史的記述は、「日露領土紛争の根源(長瀬 隆著)」に詳しい。

 日本外交が弱体なのは、この辺りにあったのかもしれないが、軍事的な素養があった明治人でもこうだから、戦後教育を受けた安倍首相には歴史を踏まえて強硬に主張してほしいものだが・・・!


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≪Will 3月号≫
ファーウェイの闇「中国:世界支配の野望を砕け」は時宜に適した対談だろう。しかし、こんな民族に、世界が支配される…などと考えるだけで背筋が寒くなる。
今、世界中から追い出しを食らっているのもよく理解できるが、それにしても先進国は気づくのが遅かった。まだまだ被害を被るだろうが、被るのは、彼らを増長させた商売人だけにしてほしいものだ。
 韓国海軍のレーダー照射問題。ばかばかしくて話にもならない。こんな国と“同盟”を結んでいる国の気が知れない!第2次大戦の時の独伊の枢軸同盟よりもたちが悪い。
 朝鮮戦争では《国連軍》に助けられたくせに、その恩を忘れ、やりたい放題!
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≪Hanada3月号≫

これもWILLと同様な内容だが、「韓国にとどめを!」は読ませる。しかしこの国は「とどめを刺す」までも無かろう。既に死に体である!



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 日本におけるUFO研究家の第一人者だと私は考えている。実に貴重な資料が整然と整理されていて、驚くことが多い。
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世に蔓延る「オカルティックな」UFO物とは一線を画す内容である。

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