軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

75年前、大陸からの引揚者支援に徹した人々

梅雨時の集中豪雨で河川が氾濫して水害が多発している九州だが、特に球磨川の堤防決壊は、民主党政権時代に建設を止めたダムの”人災だ”と思われる。

そんな中、友人である歴史作家の浦辺氏から、「西日本文化」という小冊子が送られてきた。

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九州の歴史研究をしているグループによる内容の濃い冊子である。

中に「引揚者と博多港」という一文が目についたのですぐに読了したが、これは終戦直後の混乱した時期の歴史上の実話である。そこには今喧しい「武漢コロナ」に対する警告ともいうべき指摘があった。

これを読むと、キャバクラとか、ホストクラブなどという「疫病の源泉」が実に虚しく思われてくる。緊張感を欠く、緩み切った”甘えん坊ら””のなんと見苦しいことか!同じ日本人だとはとても思えないだろう。

コロナ禍だけではない。現代日本人の知的怠惰と勇気のなさをも指摘しているから、今日は届いた「西日本文化」から当時の日本人の気迫、つまり滅私奉公の姿をご紹介しておこうと思う。

終戦後75年で、かくまでも日本人は精神的に堕落してしまい、指導者たちにも危機感が欠如しているから参考になるかどうか・・・

その意味では麻生副総理の言う「民度が高い」とは一概には言えないようだ。

 

 

引揚者と博多港=支援活動に徹した人々=「戦後75年」に問いかける                   下川正晴・記

 

 七五年前、福岡の街は引揚者の人波があふれていた。京城帝大助教授だった人類学者・泉靖一は当時、三十歳である。彼の眼前には、満州や朝鮮でロシア兵などによって性暴行を受け妊娠した多くの日本女性がいた。泉は卓抜な行動力を見せて、中絶施設「二日市保養所」を創設した。

 泉の周辺には多くの先駆者たちがいた。危機に力を発揮する「問題解決型」の精鋭たちである。二〇二〇年の日本を襲った「新型コロナ戦争」の苦難の中で、彼らに学ぶべき点は多い。

 

聖福寺内に病院と孤児施設
 「二日市保養所」は一九四六(昭和二十一年三月二十五日、福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)にあった旧温泉保養所を利用して造られた中絶・性病治療のための病院である。その母体になったのは、福岡市博多区御供所町の聖福寺内に設立された「聖福病院」であり、近くにあった引揚孤児施設「聖福寮」であった。

 注意すべき点は、「二日市保養所」は刑法が禁じた「堕胎の罪」を犯す違法施設だったことだ。法律を守るよりも命を守る。この精神に立脚した非常時の超法規的施設だったのだ。
 「新型コロナ感染対策」では、日本の法整備の不十分さが露呈した。官邸や厚労省も、十分に機能したとは言い難い。日本の官僚や政洽家たちは非常事態に直面すると、問題を解決する能力に欠けている。これはメディアにも言えることだ。その場しのぎの政策批判に終始しただけである。

 福岡における引揚者支援の先頭に立った泉靖一らは、どうだったのか。

 

先頭に立つ京城大関係者
 泉は、理論よりもフィールドワークを重視する人類学者だった。奥地探検のまとめ役として辣腕を振るった経歴が、「敗戦」という非常時に役立つた。
 泉ら京城大関係者は、敗戦後の混乱が続く京城(ソウル)の街で「罹災民救済病院」を作り、列車や船内で診療する「移動医療局」を設置した。これが福岡における引揚者援護活動のルーツである。京城-福岡-東京を結ぶ支援情報ネットワークの中心に泉がいた。

f:id:satoumamoru:20200709164020j:plain(同誌から)


 東京でサポートしたのが、西新橋に事務所があった「在外同胞援護会」理事長の松田令輔だ。旧満洲官僚出身の松田は、敗戦時には九州地方副総監として福岡県・春日原にいた。
彼は吉田茂(当時・外相)から東京に呼び出され「戦時中の国防献金四五〇〇万円ほどが残っている。これで引揚者の援護を行え」と指示され、援護会を立ち上げた。引揚女性の中に、性暴行被害者が多数いるのも松田はよく知っていた。
 松田と泉は隠密行動に出る.彼らは一九四六年四月三日午後七時、高松宮邸(現在の港区高輪一丁目)を訪ねた。
 高松宮は当時、日本赤十字社と同胞援護会の総裁を兼ねていた。「二日市保養所」での手術断行にあたって、泉らは高松宮の「黙認」を得ようとしたのだ。当時の法務省や厚生省は刑法の規定に縛られ「二日市保養所」に難色を示していた。泉らは「皇族」というマジック・カードに、打開策を求めた。 

 高松宮は戦後直後から宮中で開かれてきた「情報会」で、満洲での惨劇についてはすでに詳しい報告を受けていた。「中絶手術」の必要性を説く松田・泉らに、彼は事実上の「GOサイン」を与えた。

二週間後の四月十七日、九州視察中の高松宮は「二日市保養所」を訪問し、関係者を激励した。

 高松宮の決断によって、医師や看護婦は違法手術の重圧から逃れることができた。同保養所では500件近い中絶手術が行われ、同数の日本人女性が「戦後の人生」を歩み始めた。泉靖一、松田令輔、そして高松宮、このネットワークこそ「二日市保養所」を誕生させた人的資源である。

 「いついかなるときでも、最悪の場合の想定なしで、物を考えるな」
 松田か語っていた言葉は、現在の新型コロナ禍にあって、千金の重みを持つ。

 

馳せ参じた女性たち
 山本良健は引揚孤児施設「聖福寮」の園長だった。京城帝大医学部卒、旧知の仲だった泉靖一に口説かれて、園長の仕事を引き受けた。
 主任保母の石賀信子(父は八幡製鉄幹部)は、羽仁もと子の「自由学園」を一九三七年に卒業した才女である。彼女は福岡女学院教諭の職を羽仁の説得に応じて辞め、生涯を保育事業に捧げた。笠村田鶴(郷里は大分県臼杵市)、内山和子(長崎県出身)、山崎邦栄など他の「聖福寮」の保母たちも同様である。(以下省略)

 

生かされたか歴史の教訓
 新型コロナ禍は戦後日本の弱点と長所を同時に顕在化させた。地元紙で報道された福岡市などでの路上生活者やネットカフェ難民に対するボランティアによる支援は、泉靖一らの精神の系譜を引くものである。
 泉靖一らの行動に何らかの瑕疵があったとすれば、それは自らの引楊者支援の記録を公的遺産として践さなかったことだ。二日市保養所の「秘密治療」という性格から、それは不可避だったのかもしれない。
 しかし、そのことによって、厚生省までもが歴史的事実を隠蔽し、日本の非常時における果断な対処策の功罪をめぐる論議は、「戦後史の穴」の中に埋没されることになった。
 上坪や堀田ら民間人が努力した引揚者の記録も、福岡市の公的施設に展示されることもなく放置されている。
 そういう「戦後七五年間の怠慢」が、今回のコロナ禍における「厚労省の失態」と通底するのか、しないのか。「山本良健の遺言」を含めて、改めて考えてみる必要がある。

 

筆者の下川正晴氏は元毎日新聞ソウル支局長、論説委貝。著書には「忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所(二〇一七、弦書房)がある。

 

届いた書籍のご紹介

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軍事研究8月号

志方先輩の巻頭言「ウイズコロナ時代の安全保障」は示唆に富む。世界のリーダーである米国大統領の選挙が不透明になりつつあるし、米中戦争は顕著化している。我が国もコロナ、コロナ、東京五輪…などと”異次元の話”に熱中している暇はないと思うのだが。

市谷レーダーサイトの「この国はホントに大丈夫なのか?」もいつもながら読ませる。

自衛隊は、コロナ対策や水害対処で「へとへと」だろう。各政党青年部員も、一緒に救援活動で水の中に入ってみたらどうだ?口先だけじゃなく。

この秋には食糧危機が迫り、「国際運動会」どころじゃなくなるだろうに…

ホントは「大丈夫じゃない」のだが、誰も口に出して言えないだけなのだ。…