軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「戦中版教科書に見た『優しさ』」に私も教えざるの罪を思い出した!

いささか旧聞に属するが、9月3日の「直球&曲球」欄を見て私も幼いころの体験を思い出した。演習を終えた兵隊さんが、民家に泊まるという風習は私には当たり前のことだったから、何ら疑問を感じなかったのだが、戦後生まれの若い葛城女史には”不思議な?”感覚だったのかもしれない。

そういえば小学入学時にまずやらされたのは「教科書の墨塗」だった…

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私は昭和14年8月に樺太で生まれ、翌15年の6月に樺太に別れを告げて真岡を出港、その後一週間かけて長駆九州の佐世保市に転居した。父の転職によるものだったが、今のように交通網が発達していなかったから、宗谷、津軽、関門と3海峡は船で移動する。荷物も多かったので両親は苦労したようだ。

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落ち着いたのは相浦町という小さな港町で、その奥に海軍のパワープラントが建設されていたのである。日米開戦1年前のことである。町の中心にある愛宕神社の旧社務所を父は借りたので、家屋は古かったが部屋数は多かったから、相浦海兵団の野外演習行事では、巻き脚絆をつけた若い水兵さんたちが、背嚢を背負い衣嚢を肩から掛け鉄砲を担いで30名ほどがよく休憩に来たものだ。銃は裏庭にきちんと叉銃してあったと記憶するが、市民には珍しく大人たちも興味あり気に眺めていたものだ。食糧事情が良くない頃だったので、母は苦労していたようだが、行軍する部隊では各人の飯盒にコメが配給されていたから、ご飯にだけは苦労しなかったようだ。

記事にあるように、水兵さんが演習帰りに家に来ると知った近所の子供たちは、早くから集まってきていて、兵隊さんに銃や銃剣を見せてもらうのが楽しみだったようだが、私はただ眺めるだけであった。其れよりもかわるがわる抱っこしてくれる兵隊さんが、時折ポケットからドロップスをだしてくれるのが楽しみだったのである。

水兵さんたちは、おそらく課程修了間近かで、行軍が終わると軍艦などに配属されていよいよ戦地に向かうのだろう。そんな苦労を微塵も感じさせない、今風に言えば「アスリート」達で、さわやか笑顔と笑い声が絶えなかった。

指導教官の「中村大尉」は開戦直後のマレー沖海戦で負傷し、佐世保海軍病院で療養した後、近くの相浦海兵団で新兵の指導官になっていたらしい。専門は砲術だったらしく、英国戦艦の「レパルス」相手に戦った”武勇談”を聞いたと父は言った。だから、両親ともこの戦争に負けるはずはない”!と確信していたように見えた。私はそんなことよりも「ドロップス」が欲しかった…

休憩が終わると家の前の広場に整列して、町内会長と民宿の主婦に「敬礼!」と挙手の礼をして銃を担ぎ、町民に見守られながら軍歌を斉唱しつつ2キロほど先の海兵団(現陸自相浦駐屯地)に歩いて戻って行ったものである。

戦中はこれほどおおらかだったのに、戦後の「愛される自衛隊」では、こともあろうに災害派遣時の感謝状を町が授与するというので、演習場からの帰途、わざわざ足を延ばさせられた連隊が、街の小学校に整列したところ「護憲グループ」と「日教組」の女教師の告げ口で、「陸自、校庭で訓練」などとでたらめな新聞記事にでっち上げられ、事実関係も知らぬ間に防衛庁が「教育上好ましくない」と答弁したため、多賀城部隊の連隊長が処罰される憂き目にあった。

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商店街(夜間行軍で、練馬の部隊に戻るのだが)で訓練するな!と叫ぶ一部の都民グループ。こんな奥さんも分け隔てなく有事には救助するのだから、隊員は彼ら、彼女らよりもはるかに人格者だ!!

 

校庭で叉銃休憩中の部隊を見た子供たちが、隊員にせがんで銃を見たがったのが発端だが、「大戦中」も「平和中」でも子供の武器に対する関心は変わらないということがよくわかる。変わったのは「戦争は悪だ」という大人たちのいびつな思想だろう。

現に世界中で日常茶飯事?的に戦争は起きている。TV映画も戦争ものであふれているじゃないか!

久々に、葛城女史の一文に、老兵も昔の体験談話をあまり話してこなかったな~と反省した次第。

 

書籍のご紹介

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 蛍になった特攻隊員・宮川三郎少尉=遺書、手紙、日記、操縦日誌=20歳の書簡集

日本ペンクラブ会員・広井忠雄編

すでに何度も演劇になって上演されている。私も2度ほど鑑賞したが、身につまされた。本の中味では「操縦日誌」が同じ体験から感慨深い。

元戦闘機操縦教官の目からすれば、彼は非常に几帳面な性格だと見て取れる。恐らく平時だったら、長生きしたに違いなかろう。

このような優秀な青年たちが、次々と散っていったことを思うと、残されたものとしてはつらい。

現役自衛隊パイロットたち以外に、こんな青年は望めないと思う。あとは「そろばんや」だろうから……