軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

楽して儲けた悪銭は身に付かず

今の日本は、上から下まで「いかに楽(苦労せず)して(大金を)稼ぐか」に精力を使い果たしているようだ。気がかりなのは、政府がコロナ禍で支給した給付金を、”悪知恵”を働かせて、10億という高額な詐欺を働いた一家や、情けないことに中央官庁の役人たちも給付金詐欺を働いていたことだ。尤もそれが許されている状態の方が不思議に思われる。取り締まる役所の機能も働いていないのだろう。

松下幸之助は「額に汗して働くことは尊いが、額に汗もせず涼しい顔で働く姿はもっと尊い」と言ったそうだが、「効率よく」とは言っても、人間の“欲”には限りがなく、「汗して働かなかった金は、悪銭身に付かず」であり、ますます深みにのめりこむものだ。

詐欺事件が絶えないのは、“余分な?”金を持っている「欲深い者が引っかかる」からで、石川五右衛門が「世に盗人の種は尽きまじ」と言っている事に通じる。

他方、1981年に三和銀行茨木支店に勤務していた伊藤素子が吹田支店、豊中支店、新橋支店、虎ノ門支店等で合計1億8千万円を男の架空口座に入金した事件があったが、私はこれがこの種事件の始まりだと思っている。何よりもこの事件以降、指先一本でどんな数字でも簡単に打ち込めるようになったから役所では給料袋がなくなり、給料は「銀行振り込み」になった。当初、私は毎月働いた実感がわかず、息子などは「銀行がお給料をくれるの?」と家内に聞いたそうだ。組織としては事務処理は簡単になり助かっただろうが、“関係者”にはミスが続き、悪事を働く者にとっては実に好都合だっただろう。

「額に汗して働く」とは「働くこと(労働)」の例えであり、「額に汗もせず涼しい顔で働く」人間は、元々「そんな性分」を持っていた者が多いという風にも思える

やはりサラリーマンは、“実感”として、働いた給料を受け取る感覚を片時も忘れてはいけないのではないか?

さて、産経新聞は一面トップに「人へ投資100万人能力開発」「成長産業を活性化」と報じた。

資源がない我が国は、昔から有能な国民とその努力でなりたってきた。人こそが「資源であり、財産」だったのだ。それが正常ならざる『国際化』の波に呑まれて、大切な「人」の育成をおざなりにしてきた結果、このような「額に汗して働くことはダサく阿保らしい」「楽して儲けることの方がスマートだ」と勘違いした思想?を植え付けられてきていた。

そして今や「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」と嘆いた石川啄木のような生活になり、いっそ「涼しい顔で楽して大儲けしよう」とする青年たちが増えた気がする。つまり“悪事に走る”者が増え、「実業」が‟虚業化”したのである。

しかし、誰かが額に汗して労働しなければ、お米も野菜も、魚も食卓には並ばないのだ。それまでも「バーチャル」で構わない気か?

政府はそのことを頭の隅に置いてこの「成長戦略」を実行してほしいものだが・・・

ところで私は今、米国の「ヒストリーチャンネル」のとりこになっている。UFOもそうだが、「古代の宇宙人」は非常に興味深い。そこに出てくる古代遺跡のなんと壮大なことか!

ユンボ―も、クレーンもカッターさえなかった?時代に、あのような巨石文化が世界中にあったのだと思うと、わが目を疑う。

ところが先月末の産経に、「完全な『太鼓』埴輪出土」という記事が出た。私は記事の中に「現代と変わらない当時の太鼓の形が分かる貴重な資料だ」とあったので、この文化財保存課技師の意見が「当然現代人は優れており、古代人は進化していないはずだ」と考えているように聞こえ、少し違和感を覚えた。私には古代人の方がはるかに現代人よりも優れていた、と思われるからである。ピラミッドしかり!果たして‟現代人”の古代人感は正しいのか?

私には一概にそうだとは思えない。確かに技術は進歩したから器材は優れていると思うが、大昔にはもっと進んだ技術があったのではないか?とも思える。古代人と現代人の差は、現代人の方が、進化?した器材を盾に、古代人を見下し傲慢になっているような気がしてならない。

三沢時代、亀ヶ岡遺跡を見学した際、近所でレプリカを作成していた方と面談したが、「遮光器土偶は1000度以上で焼かれていて完全なセラミックだが、当時は松の木が燃料だから700度くらいしか上がらなかったはずだ。不思議だ」と言ったことが忘れられない。

 

月だ、火星だと、科学者たちは喧しいが、足元にある古代遺跡や地中、海中の謎を解明する方が先ではないだろうか?と最近は考えさせられている。