軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

節穴だらけの「日本の防衛」

体育の日で”連休”だというのに、天候はすぐれない。

昨日、産経が一面トップで報じた「愛知県の名古屋空港が、【空自機の離着陸量徴収】という記事に、これを読んだ読者がどのような反応をしたか知りたいものだ。

特に現在までのところ、何の反応もないようだが、事程左様に自衛隊(3自衛隊とも)」国家の重要な機関でありながら、その国家に“虐待”されている組織は、世界中どこを見渡してもないだろう。”便利屋扱い”されるだけである。

三沢基地司令時代も、那覇基地時代でも、「自衛隊ほど哀れな軍隊はない!」と彼らに評価されていたものだ。

しかし、我々は「日本国を守る組織」だから、いささか癪に障るものの、現実だから反論できなかった。

三沢基地では、将校夫人らからさえ「いつまでマッカーサーが作った国際法違反の憲法を、変えないのだ?」と質問され、語学能力とも相まって返答に窮し、「日本人は、占領中のマッカーサー司令官を尊敬しているのだ!」とギャグ?で返したものの、逆に呆れられたものである。湾岸戦争時にはもっと“軽蔑”された。

わが国に「駐留」する同盟国軍から言われるのは仕方ない?までも、今回の“意地悪”は

わが国の政府機関が設定?したものであって、反論すべき「本庁(防衛庁)」でさえも「自衛隊をいじめている?」ことの証明である。

 

大昔「北陸豪雪」で大被害を受けたことがあったが、除雪に駆り出された主として陸上自衛隊は、救援活動に駆り出された「隊員」たちの「運搬費」を国鉄から請求され問題になったことがあった。

御巣鷹山日航機が墜落した時も、急遽自主的に現場に駆け急行した、この時は(空自の隊員)は、東名高速東京料金所で、料金を請求されて立ち往生し、後続の「自家用車組」などから「邪魔だ!」と罵詈雑言を浴びせられたことがあったが、実は非常呼集を受けて「制服」で出勤し、現場出動のために「作業服」に着替えたのだが、財布は制服のポケットにしまったままであり、皆で「募金?活動」をしたものの、集まらなかったというのが実情だった。

その後国会で民社党議員から詰問され、「災害派遣出動時」には、「災害派遣」と書いた看板を掲げると、無料通行ができるようになったのだが、それほど「自衛隊」は国から「差別」されていたのだ。実際出動することなどない「お役人」は現場を知らないのである。

尤も「幕僚長」ともなれば、常時「お役人」に接するから部下たちの苦労を伝えることできるはずだが、ゴルフ、麻雀の話はできても「部下の苦労」を進言する高官はあまりいなかった。栗栖元陸将将ぐらいだったろう。

そんなこんなで、部隊側は周回遅れの対応をしてきたのである。このころ問題だったのは「メディアによる【シビリアン・コントロール違反!】追及で苦労していたのだから、役人はさもありなんであった。

今朝の産経抄氏はこれを取り上げ、「軍用機に離着陸料を課するのは世界でも疑問視されている。自衛隊を何だと思っているのか。」と書いているが、憲法にも規定されていない「武装集団」であり、その「憲法で交戦権」を否定された組織なのだから、下級役人や一般庶民には料金を取ることが至極当たり前という感覚なのだ。

沖縄勤務時代、“有事”には空軍としての活動基盤が制約されるので滑走路、または空母は必須のものだったが、そんなこと言いだせるわけもなく、年に数回行う演習では、「燃料・弾薬は規定通り届けられるものとする。基地としては最前線に当たる下地島が使用できるものとする」という「設想(独自の自衛隊用語)」を与えられて「使えるもの」として訓練したものだが、それとも「嘉手納」「普天間」の米軍飛行場から、友軍が出撃するから、盾である空自は那覇基地だけで十分!と思っているのじゃないか?と政府に疑問を持ったものだ。尤も“有事に”国民が沖縄観光に押しかけることはあるまい!が、それよりも下地島空港自衛隊に使わせないのは「侵攻してくるシナ軍のために」取ってあるのかもしれない、と部下たちと語り合ったものだ。

こんな状況だったから、折角?の防衛費増大問題も、また“お役所”の言葉遊びか?と、私のような過去に“苦労した体験を持つ”老兵は、素直に信用できないのである。

 

まさか、オリンピックの「政・民癒着問題」のように、どこかの“政治屋”が一儲けするだけじゃなかろうが、現場の隊員には、仕事量が増えるだけだ、とにわかには信用できないのである。

 

 

届いた書籍のご紹介

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【スターファミリーと出会う#完全ナビBOOK#・グレゴリー・サリバン著:ピオ・マガジン¥1500+税】

 

友人のグレゴリー・サリバン氏(E・Tコンタクティ、アセッションガイド)から送られてきたもの。

数年前、山梨県のとある山奥で、私たち家族は彼の指導の下、ETコンタクト体験をした。この時は家内も次男も一緒で、3月末の寒い夜の山岳地帯で、期待に打ち震えて体験ツアーに参加した。今考えると“贅沢なもの”で、対象は私以下4人の家族、講師はサリバンさん直卒だった。

ヘリポートのようなコンクリート打ちっぱなしの広場には、我々とは無関係な星座観測中のマニアが大型の天体望遠鏡を据えて座っていたが、サリバン氏が音や光を出しますが・・・と断りに行くと快く了解してくれた。

一回目の体験では、変化は起きなかったが、日が変わった二回目の深夜、車座になって心地よい周波数の音楽(?)を聞きながら瞑想に入った。家内は特に瞑想体験が多いので、容易に瞑想状態に入ったようだったが、私は浜松時代に「座禅」を体験した程度であったから雑念に支配されてなかなか周波数が上がらなかった。

しばらく極寒の中で震えていたが、そのうち日付が変わり今日は29日、私の両親の月命日だと気が付いた。(父は7月29日、母は、1月29日)。それに気がついた私は、そうだ、両親は今頃仲良く天国で暮らしているのかな~と気になり、「今天から見ているのならば、姿を現して見せて!」と祈り始めた。

天には大熊座、北極星こぐま座が華やかに広がっていて、まばゆいばかりだったが、両親からのシグナルを期待しつつ、天空を見上げていた時、突然北極星の右側に輝いていた星(?)が「スー」と右に移動した。流れるのではなく、明かに直線移動である。思わず息をのんだ瞬間、後ろで次男が「アッ、動いた!」と頓狂な声を上げた。同じ方向を見ていたのである。サリバンさんによればそれがUFOで、星ではないという。

その後家内も長男も星(?)が動くのを体験したが、長男だけは今でも「流れ星だったかも…」と半信半疑である。

動く星を見る前に私は「せっかくサリバンさんに来てもらったのに、今日はスカ!だな。申し訳ない」と彼の努力を無にしたことを心でわびた。そんなことからこの時「極寒の気温」を感じなかったのだから、一瞬無私の状態になっていたのかもしれない。

この本の終わりの部分に、多くの人たちの「体験談」が乗っている。

 

私も家族も、彼に指導されて貴重な体験ができたことに感謝しているが、昔、現役時代にUFOが操れる石巻宮司様に「私にもUFOを見せてほしい」とか、「幽霊を見たい」とお願いして厳しく「興味本位でやってはならない!」諭されたことがある。

退官後、UFOの本を上梓したことから、TV番組などに招かれたが、真面目に説明すればするほど「馬鹿にされ」、集まっている芸能人などには「興味本位」の人が多いので出演は辞退することにしたが、その後米海軍の写真が本物だ!となると、がらりと変わってメディアは「UFO=実在する」説をとるようになったことがそれを証明している。

サリバンさんは、そんな低次元ではなく、より高いものを求めていて、それを求めている人たちを善導しようとしているのである。ご一読をお勧めしたい。

(体験談は、「宇宙戦争を告げるUFO(講談社刊)」に記述してある。)