軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「寄らば斬るぞ」の体制確立が「抑止力」だ!

私は沖縄勤務の後、1997年7月に退官したが、その直後の1998年7月1日から3日間韓国を、7月12日から16日まで中国軍、11月8日から11日まで台湾軍をアジア安保研修団の一員として見て歩いた。半年足らずの間にこれら3か国の軍隊を研修したことは非常に大きな収穫であった。

 特に当時の中国軍は“周回遅れ”の軍隊で、装備も人員も「旧シナ軍」そのままと思えるほどであったが、その後岡崎研究所(所長=岡崎久彦元大使)の特別研究員として、約10年間、相互に訪問しながら忌憚のない意見交換をする「日中安保対話」に参画した。

表向き中国側は、文官の研究員が主だと称していたが、実は主力は大佐クラスの「軍人」で、名刺には「○○研究員」と書いてあった。

2000年9月に、上海と北京で調整会議を開き、第一回の会議は2001年12月に上海から始まったが、北京での対話は2005年にようやく再開した。“民主的な”上海は‟気軽に”開催できたが、北京はなぜか“慎重な対応”であった。

それは出席した中国側の中にあまりにも無知で無礼な態度を取ったものがいたので(後で陸軍中佐だと知らされたが)「もっと歴史を勉強せよ」と指摘、さらに「南京虐殺…」などと言いがかりをつける発言が続いたので、業を煮やした私が「いつまでそんな嘘をつくのか!何ならもう一度戦争して決着をつける気か!と日本の青年が聞いたら本気で怒るぞ」と諭したのだが、夕食会の直前に興奮した出席者の一人が「今日の会議は成果があった!軍人はうそをつかない。私も軍人だからよくわかる!」と言葉を発したことで、出席者の大半が陸軍の大佐、中佐などであることが分かったのである。

そしてこうも言った。「日本の代議士や教授などは嘘つきばかりだから話にならないが今日の自衛隊OBはうそをつかない」

尤もうそをつきたくとも、わがVIPは軍事忌避の方々が多いのだから、そう感じたのだろうと思う。

 

おそらくこれが響いて、北京側は相当慎重な検討会を開いたのだろう、とその当時思っていた。北京の社会科学院と対話が再開されたのは、2005年11月だったことからもわかる。

彼らは当時予定されていた北京五輪」を成功させることが最優先事項であったから、そこそこ柔軟な態度をとっていたが、2008年夏、五輪が「成功した!」途端、態度は急変し、尖閣問題や、台湾問題に対して「傲慢」ともいえる発言を繰り返すようになったから、私は疑問に思っていたのだが、その謎が解けたのは、2011年6月に胡錦涛総書記の下で中央政治局、国務院、中央軍事委員会の合同会議が開かれ、新しい軍隊創建大綱方針が採択されていたのである。

会議では【新たな段階の軍隊の歴史的使命は、国防と軍隊の科学的発展の推進をキーワードとして、軍事闘争の準備を拡張し、進化させることである】とされていた。

そして同年には建国以来最大の軍事学校の大改革が行われ、教育資源が再編されて、的確性・有効性・長期展望性が強調され、860億元(当時)の軍事費を特別に支出されていたのである。

そして「空軍哨戒学院」「海軍陸戦学院」「パラシュート兵学院」「陸軍装甲部隊学院」「軍事先端技術学院」「国防情報学校」「特殊兵高給学院」などが創設されている。

まさに胡錦涛主席の号令一下迅速に軍の改革がなされたのである。この時の斬新な転換が、今日の人民解放軍の「改革」を推進したのであり、日本の防衛論議と比較すると「月と鼈」「ウサギと亀」ほどの違いが感じられる。日本の政治家に言わせれば中国は「独裁専制主義国だからトップの言うまま素早いが、日本は民主主義だから時間がかかる」となるのだろう。

しかしながら、例えば昨今話題の「反撃能力」の定義を見てもわかるとおり、「独裁国」と違うからか、なんとも「曖昧模糊」としている。

民主主義国の政治家らは、言葉遊びは得意だが、その理解力においては数段「独裁国指導者」に劣る気がしてならない。いや、他の“仕事”が忙しすぎて事防衛論議になると、理解出来ないか、理解しようとしないのではないか?

その上、何時まで経っても自衛権行使の範疇」だとか、「必要最小限度の実力行使」だと断り書き付きである。攻めてくる敵が、「必要最小限度の戦力」で攻めてくるのかどうか不明だというのに、これを唱えればいかにも自分だけは「平和主義者」でもあるかのように錯覚している。

 

攻めてくる側にしてみれば「バッカだな~」と言っているに違いない。

 

これだから「馬鹿な大将敵より怖い」と言われるのである。