軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

抗日戦勝記念日って何?

「中国は9月2日3日の両日,北京で抗日戦勝利60周年の記念行事を実施する」という.ちょっと待ってもらいたい.中共はいつ日本に勝利した?
1945年8月15日,確かに我国は天皇の御詔勅により『終戦』した.したがって大東亞戦争に「負けた」ことになるが,実態はどうだったか.南方戦線の米軍とガップリ4つに組んで,物量に負けはしたが,中国戦線では,まだ各地を占領していた.重慶に逃げ込んだ蒋介石は,米英軍から多量の軍事物資の支援を受けて,米軍方式の師団を編成して,時たま我が軍と交戦して戦術的勝利を得た事は認めよう.しかし,延安に逃げ込んでいた共産軍は,蒋介石の国民党軍と戦う事を予期して,互いに戦力の出し惜しみをして,日本軍とは真っ向から戦闘をせず,いつも逃げていた.
8月15日,天皇の命によって「勝っていた」日本軍は、「負けていた」中国軍に,やむを得ず「武装解除」されたのは事実である.それを「抗日戦勝記念」というのなら、勝手に言わせておくが、少なくとも軍事的勝利は得ていないことだけははっきりさせておきたい.
9月8日,日本軍が占領している南京に,戦闘機に護衛されて南京故宮飛行場に到着した国民党軍総司令・何応欽上将は,漸く晴れて首都入りした。翌9日、降伏調印式が行われ,支那派遣軍総司令官の岡村将軍(陸士16期)は,日本の陸士卒の遥か後輩の何応欽と席についた.
降伏文書は、何応欽上将から小林総参謀長(陸士24期)に手渡され,岡村大将が毛筆で署名捺印して何上将に戻され,儀式は終了した.他方上海では,第13軍司令官松井太久郎中将は「8日、中国第3方面軍・湯総司令は上海に到着して市中行進をするから、日本陸軍から2個分隊の警備隊を派遣し,湯総司令の直接護衛に任ぜよ』と指示されている.これは事実上日本軍の支配下にあったことから警備を命じた事もあるが,他方,陸士先輩の日本軍司令官に対して敬意を表し,「日本軍の最後を飾る事,及び日本敗れたりといえども中日の提携こそ大切で,日本軍に守られて入城することは日中両国の真の姿を具現するものではないか」という東洋道義をわきまえた行為であったと言われている.然るに共産軍はどうか.林飛行隊を抑留し,空軍建設をさせて国民党との内戦に貢献させた癖に,こともあろうに今ごろ「抗日戦勝記念日」だとは笑わせる.
数年前,北京の社会科学院での討論会で若手研究員が『歴史に学べ』と呼号した.彼は,中共軍は抗日戦争に勝利し,しかも打ち負かした日本軍は残虐だったと思いこんでいたから始末に負えなかったが、あまりにも無礼だったから私は「日本軍は負けてはいない.アメリカに負けたのだ.天皇が矛を収めよと命令されたから,勝っていた軍隊が,負けていた中国軍に武装解除されたのだ!。なんだったら、改めて決着をつけるか!」というと,『そんな事は我々の教科書には書いてない!』と反論した.高齢の研究者は俯いていたが,40代の研究者は血気盛んであった.
まさかとは思うが,日本人青年も,日本軍は中共軍に負けたと本気で思っていないだろうか?
冗談ではない.軍事的には太平洋戦線で米軍に「コテンパン」に負けたのは事実だが,南西アジア,東南アジア,中国大陸では,兵力を南方に抽出して弱体化してはいたものの,厳然として軍は健在だったのである.
勝ってもいないくせに『戦勝記念日』を設けなければならないほど,彼の国は「勝利の味」に乏しいのである.朝鮮戦争然り,インドとの国境紛争然り,1979年2月に30万の大軍で殴りこんだベトナム侵略戦争では,6万人も死者を出して1ヶ月で退却している.降伏文書をかわした「国民党軍」には,それなりの自覚があった.しかし,内乱で天下を取った共産党軍には,「抗日戦争勝利」を記念する,どんな「切っ掛け」があったと言うのか?我国は共産軍とは『降伏調印』をしてはいない.何を根拠に「勝った」というのか?
 日本の国家指導者が不勉強で気弱で文句も言わないことを良い事に,架空の戦勝記念キャンペーンを張り,反日宣伝を行う事だけが,国家統一の唯一のジェスチャーだとしたら,なんとも哀れで虚しい,卑怯な軍事大国だとしか言いようが無い.