軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「日本文化を排斥する政党」は自滅する

心不全の治療のため、体重が10キロも減った。

当然のことながら筋肉が退化したせいで、歩行が不自由になり、今、リハビリ教室に通って回復を図っているところだが、そこに新たに歯の治療が加わった。

「老化現象とはこれを言うのか?」と、まだこの世から去るには早いと思っている私は、修復を依頼したのだが、実に丁寧な歯医者さんで、じっくりと計画通りに「土台」から修理している。

「歯は治ったが患者は死んだ!」となるのじゃないか?と医者をからかっているのだが、そんなことでブログの更新もままならなかったところに、九州のかっての部下から「ブログ楽しみにしています」と催促の電話が来た。

 彼とは、「尖閣防空作戦」で苦労した仲だったから、一気に昔を思い出して長話になった。

 あの頃外交上適切に対応していれば、今の沖縄問題など起きなかったはずだが、現代の政治家は「自己利益だけを短期的」に考えて、「先を見ようとしない」者が多いらしく、「放置したまま」だったから今頃になって右往左往している。

 何せ時の首相は敵性国の「ハニートラップ」に引っかかって国費を浪費していたのだから話にならなかった。

 そんな彼が「防空作戦を実行しよう」とする私に対して「武器は使うな!」などと寝ぼけた命令を出すほどのわが国にとって「不適材な人物」だったのだから、結果は知れていた。

 

 偶々今朝の産経新聞に、山谷えり子・自民拉致問題対策本部長が「自民党は保守か?」という欄に『日本文化(を)「排斥」(するのは)なじまず』「改憲皇位継承策(は)国柄を守ることに(なる)」と一文を書いていた。

 やはり、というか「当然」というか、「減税眼鏡」よりも正論を吐いているなあ、と感心する。

 老兵の私の周りでも、自民党離れが顕著なようで、次回選挙は、『日本保守党』が参入することもあって、相当な混乱が生じるような気がしてならない。

 

 国自体が、すっかり「緩み切って」いて、大相撲もスポーツも、面白くなくなってきた。これは私個人の「老化」のせいだけじゃないと思う。とにかく各方面の「緩み」は、取り返しがつかないほど緩んできている。おそらく修復不可能じゃなかろうか?私の歯と違って(笑い)

それは国の根本の立て直しを無視してきたせいだ。

 変わって程度の低い、教養が欠けている輩がのし上がってきていて、各方面で問題を引き起こしているようだが(既成政党も地方の組織は同様だが)、行き着くところは「戦い」に結びつくだろう。

 

折角待ちに待った「政界の大掃除」が始まった処だというのに、票集めの「連合」をこれからも維持しようとする、保守党系は見苦しい。

 

押しつけ憲法を後生大事に抱え込んで、仇敵国陣営にぶら下がっているような国は、一度大ナタを振るわないと自覚しないもののようだ。

 

イスラエル戦争、米国の衰退など話題には事欠かないが、その裏で続く「無責任」なマスゴミフェイクニュースの影響で、尊い「日本文化」が排斥されてきた結果に気が付くのも今や遅しの気がする。

 

 得体のしれない「マスゴミ」によって、一般的なブログや報道などでも【真正】保守派に対する「言論弾圧」が進行していることに、良識ある国民が早く気がつくことに期待したい。

 ただし、旧態依然とした自民党は【真正保守派】に入るかどうか、疑わしいこと限りないから注意が必要だ。

 

届いた書籍のご紹介

=====================

Hanada1月号

 

WILL 1月号

両誌とも【真正保守派】だと思っているが、いよいよ作者の中から「政党を作る人が出てきた!」

成り行きに期待しよう。

「第三者委員会」でも作る気か?

日本国内では、次々と問題が起きるようで安定した政治状況は「全く」望めないようだ。

今朝の産経抄氏はこう書いた。

 

永田町には、「有権者の常識では計測しがたい『異質な時間』が流れている」とまで書いた。

例の神田憲次財務副大臣、女性問題で辞任した山田太郎前文部政務官、ネット広告を区長に勧めた柿沢未途前法務副大臣を「やり玉」に上げて非難したのである。

「世間の感覚とかけ離れた時計の狂い」を直せというが、治るまい。それよりも、任命責任だと騒ぐ野党も「感覚が狂って」いはしないか?

そんな人気取の輩しか「立候補しないのが現実」なのであり、大多数の常識人は「選挙に出よう」などとは思わないのだ。出るのは単なる「金目当て」の「目立ちたがり屋」に過ぎない。

今また「宝塚問題」が世を騒がせているが、一人自殺するまでここの組織の管理者は、気が付かなかったのだろうか?そんなことはあるまい。中はごたごただったはずで、ついに「自殺者」が出て隠しきれなくなったのだろう。

日大事件を見ればわかるじゃないか!何も学んでいない!

 聊か古くなるが、今日も「自殺者が出た」ジャニーズ問題がこれをよく証明している。弁護士の北村晴雄氏が先日こう書いていた。

 これを読んで私はこの事件の大筋を理解できたのだが、要するに、世間に流れる「情報」が、それを隠す人間によって隠ぺい・改ざんされているから、世間の「常識人」は、「常識では計測しがたい」のである。

 かっての大戦では、戦況が不利になって以降、負け戦も「勝った、勝った」と修正?されて、国民は発表を信じていたが、ついにこらえきれずに「突如?」敗戦を迎えたようなものだ。国民は「勝つと思っていた」のであり、そう思わせてきたのが時の政府が指導する政府であり、それに唯々諾々と追随したのが「マスゴミ」だったから、余計国民は心理的に動揺したが、それを救ったのが「昭和天皇」の一声だった。天皇が不在だったら、戦いは終わらなかっただろう。強がりは大勢いるが、不利な役柄を引き受ける者はいないのだ。

 現在もそれと同様な事態が継続しているのであり、やや下火になったウクライナ戦争でも、もとよりイスラエル戦争でも、当然のごとく「それ」が行われている。

 第一、戦闘は変わりなく続いており、犠牲者は引き続いているのだが、紙面にスペースがないので伝えない、だから国民は知る術がないだけだ。

 今後、我国内で大きな問題になるであろうことは「武漢コロナ問題」であるが、国民はほとんど知らない。「週刊誌ウォッチング」に花田氏が書いている。

長年「週刊ポスト」はコロナ”事件”に疑問を感じて調べ続けていたのだろう。誰も見ていないと知ると皆これだ!人間が「貧相」になった!

 そして今朝の「正論」に島田教授が、「抜本的システム改革必要な最高裁最高裁の最近の判断に対して疑義を唱えているが、私もそう思う。

 島田教授は「①最高裁違憲決定を、国会が過半数より高い数字の再可決によって覆せる道を作る②最高裁裁判官を、オープンな公聴会を伴った国会同意人事とする」と提言しているが、全く同感である。

 どこの馬の骨ともわからない、おじさんおばさんが国家の方針を覆せるようじゃ、有権者は堪ったものじゃない。どこが三権分立だ。

 私は、昭和46年に起きた「雫石事件の裁判」を調査してそのことがよく分かった。(【自衛隊の「犯罪」雫石事件の真相!】:青林堂

 

 西東京の山の片隅で、見るともなく世間を見ていると、最近の出来ごとに呆れてしまうことが多い。

やがて政府が出来ないこととして国家組織に対しても「第三者委員会」を立ち上げて、良し悪しを定めてもらう日が来るのかもしれない。

「早く目を覚ませ!」と永らく講演会で吠えてきていたつもりだったが、聴く耳は持っていなかったようだ。

しかし、「第三者」の構成が「外国人」にならないようにしなければならないが、今の政府じゃ歯止めが利かない気がする。これで「いいんかい?」わが同胞よ!

 

 

西洋の「殺しや集団」と日本の「愛国者」の差異

前回、葛城女史の論文から「特攻隊」について紹介したが、産経に「特攻隊」が出ていたので、これもご紹介したい。

紙面が狭いので、読むのは困難だろうが、これが当時の「軍国主義国・日本」の、家族の絆を物語る事実である。

ロシアのような、戦争目的のプロの軍事集団という組織ではなく、一般国民から「出征」して、祖国を守るために戦場に駆け付けたのであり、血が通った人間集団だった。

 また、宮崎氏の「ブログ」を引用して、国家基本問題所の「政軍関係」の論文も紹介したが、実物が送られてきたので、北村氏の「経済安全保障」とともに、後段でこれもご紹介して置くことにする。

 宮崎氏が冒頭で嘆いていたように「戦後の日本ではほとんど論じられないできた内容のもの」だから、あまり期待はできないが、今世界中で「戦争が起きている」中であり、少しは本気に考える方もいるだろうことを期待してご紹介するものだ。

 

 さて、細田衆院議長が亡くなった。議長辞任から一か月だったろうか?その姿からは全く「生気」が感じられなかったからよほど具合が悪かったのだろう。

 この政権には、このような生気が感じられない方々が多い。逆に国のことはそっちのけで元気に?「自分の会社の儲け」だけに精を出す議員さんが多い。なんでこのような「不適切な人物」が集まるのかしらん?と思ったが、もともと今の政界には「バッジ」と役職(副大臣?)を利用して自分が儲ける?者しかいないのだろう。つまり、人材が著しく欠乏しているのだろう。そのうちに永田町は「詐欺集団」に乗っ取られるのかもしれない(笑)

 ところで、大谷選手が、小学校に6万個のグラブを寄贈すると発表した。青少年たちの嬉しそうな笑顔にほだされたが、彼の様な「真摯な生き方」をする人間が、あまりにも少なくなった。きっと良い少年たちが育つだろう。大いに期待したい!

 私は終戦の翌年に小学校(当時は国民学校)に入ったのだが、物資欠乏はよく記憶しているが、大人たちの苦労はあまり理解していたとは言えない。物がなくて苦労していたのは、当時のお百姓さんたち以外はみなそうであったから、お米を求めて遠くまでリュックサックを担いで出かける両親の姿が「当然の風物詩?」だと思っていた。だって「物がない」のだから。

 巷には「浮浪児(戦時孤児)」が屯し、彼らはモク拾いが日課だった。傷痍軍人が街角に立ち、ハモニカを吹いて小銭を集めていたし、MPと警官が、密売業者(と言ってもほとんど食品を求める婦人達だったが)中には「パンパン」と称する娼婦が、米国水兵と腕を組んで歩いていて、我々は先生方から「見ないよう」にと注意されたものだった。

 そんな中での楽しみは、母がかけてくれた「蓄音機」から流れる小学唱歌であり、関心を持ったのは親の「謡曲」を練習する姿であった。だから今はやりの音楽は、さっぱりわからない・・・

 そんなことを考えていた10月26日に、次「の読者の欄」が目に留まった。

 今でも「老人会」で皆さん方と合唱するが、私の心にしみるのは「里の秋」と、訳もなく好きだった「あした」である。

 当時は「母子家庭(父は戦地へ)」が多かった。当時の私は両親から「かあさん・とうさん」ではなく「かあさま・とうさま」と教えられた記憶がある。

 この投稿主は55歳だから、まだ若い。「いつまでも歌い継がれてほしい」とはなんともうれしい話である。

 

届いた書籍のご紹介

======================

「政軍関係」の研究:国基研「政軍関係」研究会(編)¥2200+税

「経済安全保障:北村滋著:中央公論社¥2000+税」

”シビル・アンコントロール”

今朝の「宮崎正弘の国際情勢解題」に「栄誉でつなげ菊と刀」「自衛隊は奇妙な存在。元首に軍の統帥権がなく総理大臣が最高指揮官という国家はヘンだ」と題する『政軍関係研究 新たな文民統制の構築』(並木書房)【国基研「政軍関係」研究会(座長・田久保忠衛、掘茂、黒沢聖二・責任編集】が紹介されていた。少し長くなるがその全編をご紹介したい。

==================

 文民統制というのは、そもそも誤訳である

シビリアンコントロールが「文民が軍人を規制する」トカの誤解がまかり通り、とどのつまり、自衛隊は「普通の国」の常識的な軍隊ではなく、警察の延長でしかなくなった。すなわち日本国憲法」が、政治と軍事の関係を根底から破壊したため、異常な状況が長らく続き、日本国家がいびつになった。

このままでは自力で日本を守れないことは明らかだが、不思議なことに「政軍関係」は政界・官界・学術界、そして論壇でも議論にのぼらなかった。

そこで田久保忠衛座長のもと、国家基本問題研究会(桜井よしこ理事長)が研究会を立ち上げた。専門家を集めて議論を重ね、問題をまとめた。それが本書である。

 田久保座長は言う。

 「自衛隊は特殊なもので国内的には軍隊ではないけれども国際的には軍隊と見なされている」

 まるでコスタリカである。中米唯一の白人国家コスタリカには軍隊がない。なぜならクーデターばかり繰り返した軍隊はそっぽを向かれ、なくしてしまった。国防は警察が行う。

 自衛隊は行政的には警察である。妙な存在で、『警察と同じ法体系にある』という大事なポイントが本書で示されている。

 

 「自衛隊が軍隊になるための理想は元首に直結することです。」

英国では大権は国王であり、『国をまもるということに対して王家が先頭に立つ』

 ところが、自衛隊は、この点が曖昧で、菅直人首相のおり、「統幕長と陸海空三軍の長を前にして『僕が自衛隊の最高指揮官というのが初めて分かった』と迷い言を吐いた。しかも笑い話で済まされた。

 

軍人勅諭の精神はどこへ行ったのだろう?

 嘗て「軍人勅諭」が軍人のモラルを律した。

現在の自衛隊には五つの『自衛官の心構え』が述べられているが、忠誠心、武勇、質実剛健という言葉は入っていない。忠誠心の対象は曖昧であり、「忠勇無双」は「忠勇夢想」になってしまった。

 解説のなかで編集責任の堀茂氏が指摘している。

 「仮に天皇自衛隊との関係において統帥というものが不要であるならば、自衛隊はこれからも警察的行政機構であり続ける。この合意は、用兵作戦まで政治の指揮監督下に入る『私兵』的存在ということである。軍は政治的統制を受けるが、精神的統制の対象が政治家ではなく国家元首にむいているからこそ『私兵』とならない」(58p)

 したがって三島由紀夫が「栄誉で繋げ菊と刀」でのべているように主の為に死に場所をもとめる精神の高貴を担保するものがない。

 「総理大臣の出勤命令で得心して死地に就けというのはあまりに残酷である」と掘氏が指摘する。

 政治と軍の関係を78年間も有耶無耶にして、わが国が延命できたのは一つの僥倖だった。これから本格的議論が望まれる。

       ◎☆□☆ど□☆☆□く☆◎☆□し☆□△◎ょ☆□☆◎ 

有志?達にとっては、長年問題視されてきたものだが、意図したメディアの妨害にあって、国民全体の「話題」にさえならず、しびれを切らした三島由紀夫は、国民を覚醒すため「割腹」して果てた。其れでさえも民意?は不変だった。

私は当時1等空尉(空軍大尉)で、浜松基地で戦闘機操縦教官をしていて、着陸して整備員から知らされ、衝撃を受けたことを覚えている。

その後手当たり次第に三島作品を読み漁り、彼の真意に近づこうとしたものの、そこまでは至らなかったが、「自衛隊」という奇妙な「警察予備隊」で過ごすうちに、鮮烈な意識は薄くなっていき、結局「平時の平民」と同じ状態に陥った。

 第一、「国際紛争」を禁止した組織でありながら武器を持ち、「憲法違反の戦争」を志向する組織はありえない。

 階級が高くなるにつれて、内部の不思議さに戸惑うことも多かったが、それはメディアが声高に叫ぶ「シビリアンコントロール」という用語で、その結果はいつも「シビル・アンコントロール」だったからだ。「軍人」は命を懸けているが「文民」はそうではない。口先だけの「わめき屋」に過ぎない。

防衛庁長官」と称する食わせ者が、何人「軍人」を統率?したか。

本書の中で堀氏が「仮に天皇自衛隊との関係において統帥というものが不要であるならば、自衛隊はこれからも警察的行政機構であり続ける。この合意は、用兵作戦まで政治の指揮監督下に入る『私兵』的存在ということである。軍は政治的統制を受けるが、精神的統制の対象が政治家ではなく国家元首にむいているからこそ『私兵』とならない」と指摘しているように、自衛隊は不変のままで実に1世紀近くになる。そして今や逆に「戦えない武装組織」だと近隣諸国に「理解」され、徹底的に舐められてしまった。尖閣しかり、拉致しかり…

 政府は、自らが「不戦組織」を作り上げ、これ見よがしに「平和の代表」のように宣伝するが、自らが行ってきた「憲法違反」に気が付いていまい。

其れなのに事あるごとに「憲法を改正する」と「虚言」を呈する。

国の根幹がくるっているのに、気が付かないか、それとも気がついてはいるがやりそうにもない政府なんぞ、国民自身が信頼するまい。

 

ウクライナイスラエルを見よ!ここには「平和はなく、殺戮が続いているではないか!何時まで寝とぼけている気か知らないが、世の中が異常であるのは「気象が異常」だからだ程度の誤解でこの世を見て済むと思う方がくるっているのじゃないか?

そんな中で迷いながら自衛官として生活してきた一老兵の「寝言」である…

先日、陸軍特攻隊の記事を紹介した。一年前の記事も紹介しておこう。精強な軍隊の、終戦時における解体の実相である。

 

実際に「特攻隊員として散華していった」若武者たちと戦地に散った多くの英霊方に我々はどう申し開きが出来ようか・・・

 

英霊方の無念を思う

友人でもあり「仲間」でもあった、葛城女史のエッセイには、特に「英霊」に関して胸を打たれるものがある。

昨日の産経新聞にも出ていたからご紹介しよう。

本題は、陸軍特攻隊に関したものだが、私は主として海軍について以前書いて一冊にまとめたことがある。(「お国のために:青林堂」)

内容は大西海軍中将と特攻隊の誕生にかかわるものだが、以前から直接の部下であった、義父・寺井義守が語っていたことも含めてある。

米軍のフィリピン進攻を阻止するために、急遽編成された部隊の指揮官に発令された中将は、苦心して「台湾」を経由して現地に飛び、フィリピンに進出して作戦を指揮したものだが、その後、隊員たちの「熱誠に押されて」「特攻」は新規の「作戦」となり、ついに大西中将は「特攻の父」と呼ばれて、戦後全責任を負わされることになるが、最後の連合艦隊となった艦艇群のフィリピン阻止作戦を成功させるための一時的なものであり、「特攻作戦」の誕生を意図したものではなかったのだ。

しかし当時の戦の様相から、前線には「特攻」の機運が避けられなくなっていたのも事実だった。特に操縦士の練度という点で…

そして促成栽培?された多くの若者たちが、爆弾攻撃で「お国のために散華」していったのだ!

あれから約一世紀、残った祖国は、見るも無残な醜態をさらし続けている。

良い、悪いは別にして、「士農工商」が、「商農工士」と変わり、敢闘精神が消えて、金儲けに専心する、コンビニ程度の店の主が、金の多寡だけで品位があった業界までを牛耳るようになったから、百貨店など、組織全体から「品位」が消えたのである。昔は「武士は食わねど高楊枝」と言われたものだが・・・

今日の産経抄には、占領軍によって「憲法」を与えられ、「悪政」をほしいままにされた哀れな国に、せめてその昔、「近代化を推し進めて日清・日露戦争」に大勝して、祖国の近代化を推し進めた「明治大帝」を偲ぼうとする動きが書かれている。

産経抄氏の精神に全く同感だ。

今朝も早く起きて玄関先に国旗を掲げ、新聞を取ってきて気が付いたが、日本人は「祝日に国旗」を掲げることさえしなくなった。暇があれば「金儲け」の話ばかり…

まるで、いずれ起きるであろう?「他国からの占領」に備えているかのようだ。

国会議員でさえ、国家の将来よりも「自分の職業としての金儲け」に邁進する始末。

みすぼらしいこと限りないから、人気取りの「減税」よりも、「明治節の復活」をしたくなるじゃないか?

若者たちが悪事に走る気持ちも分からぬことではないが・・・・?

あと何年も生存しない一老兵が言っても無駄だろうが、優秀な民族の子供たちの将来が、あまりにも気の毒だから、苦言を呈しようと感じた次第。

 

傲慢になった15名の最高裁裁判官たち

昨日の朝刊を開いて驚いた。「性別変更に生殖機能をなくす手術が必要だ」つまり、「従来の憲法は、違反だ!」と決定したのである。しかも裁判官15名が全員一致したという。

人間の「性」は、生まれつき天から与えられたものとして、人間はこれに反しないで生活をしてきた。「男は男、女は女」だとされたのである。

遠くアダムとイブのころから定まっていたものを、たかが15名の「日本人の裁判官」が、否定したのである。

「ぺニスを持っているけど、私は女なの」と言って通用するようになったのである。之こそ「天に恥じない不遜な行為」ではあるまいか?

何時からわが国の最高裁裁判官らは、【天をも恐れぬ存在】になったのだろうか?。

しかも、一応政治家のように「我々から選定された人たち」ではなく、「なりたくてなった人たち」なのであり、要するに「隣のおっさん」達が、である。

しかし今の世は不思議なもので、オチャラカ番組は栄えているが、国民のほとんどは、裁判官の「質」を見て見ぬふりを決め込んであるように思える。「性同一性障害者」という人種が、わが人口のどのくらいを占めているか知らないが、(生活が懸かっている本人達は真剣だろうが)、要するに「同好会」程度のものだろう。

翌日ジャーナリストの櫻井よしこ氏が、「判断に強い違和感と危惧」を感じると、産経紙たが、全く同感である。その下に棚村政行という早大教授が、”賛成論者の肩を持つかのように”「不安払拭への努力も不可欠」などと、訳知り顔に書いているが、論旨不明瞭である。

桜井女史は、「15人の最高裁判官が、幾百世代もつながってきた日本の価値観や社会の根幹を変えようとしている。たった15人の判断でこんな大事なことを変えていいのだろうか」と疑問を呈しているがその通りだと思う。

今日の産経抄には、きわめて正常な意見が書かれていて、「私は女(男)ーと言えば性を選べる、そんな誤解を広めてはならない。」と警告?しているが全く同感である。

「男らしさ」「女らしさ」という語が消えて久しいが、言葉は消えても実際は使われていないだけで、世の中には厳然として残っている。

宇宙のどこかに住む知的生命体(もしいるとすれば)が天から見ていたら、彼ら15人の行為をなんと見ただろう。

いよいよ「人間界の歴史」も、最終段階に入りつつあるような気がして、鬱陶しくなった。

 

届いた書籍のご紹介

==========================

Hanada 12月号

 

WILL 12月号

 

両誌とも、かなり激越なタイトルを書くようになった。WILLの10月号に「学はあってもバカはバカ」と岩田氏の論文が出たが、今回の最高裁裁判官たちその中に入るだろう。

今月号には「蛮行を庇う愚か者たち」という飯山陽女史の論文が出た。「黙ってみていられない?」という証明かと思う。雑誌の売り上げに協力するのではなく、市民生活の向上に貢献してもらいたいものだ。

東洋に浮かぶ「幸せな国!」

11日付の産経新聞の漫画は面白かった。いま世界で起きている“紛争”の実態をよく表している。

暴力を行使した張本人が、何食わぬ顔をして、それに続いた「他人」(ハマス)をののしる。

そう、書いてある通り「お前が言うのはナンセンスだろう!」と言ってやりたくなるが、これが国際関係の「常識」なのだ。

 

21日の産経新聞「週刊誌ウォッチング」に花田氏が書いたように、所詮「素人集団?」である日本人コメンテーターが、今回の事件を解説しても始まるまい。やはり花田氏が言うように、『ニューズウイーク日本版』に限るだろう。日本のメディアは「ジャニーズ問題」程度が適しているのかも…

 

 ところで天候異変もあってか、本来の地球上の生物?である動物達が、食を求めて人家密集地帯に降りてきては、「処分」されているが、なんとも悲しいことだ。

 小熊連れの母熊が、懸命に子供を守るため、人間に襲い掛かっている様は「動物の暴力?」というよりも、人間に侵された「テリトリーの復活」のように見える。

 弱肉強食の中にあって、人間も動物も「共存共栄」が望まれるのに一方的に「人間様」の立場の方が有利のようだが、それは動物たちにとっては「不満」だろう。

 尤もその「人間様」が、プーチンハマスのように、ウクライナイスラエルでやりたい放題?というのでは、動物たちと少しも変わっていないことを意味する。それとも彼らだけが「変わっている存在」なのかもしれないが・・・

 

さてわが国の現状は、何とも「平和国家」の名をほしいままにした天国のようだが、その平和を利用?して卑劣な青年による犯罪が後を絶たない。しかも「弱い者いじめ」の典型的な殺人事件が続いているが、学校で「人を殺すことは悪いことだ!」と教えられなかったからだろうか。

 ならば、せめて女子学生には「男はみんな狼だ」と用心するように教育をしてほしいものだが、そう教育できる「大人」が、ほとんど犯罪を手を染めているというから話にならず、動物よりも始末に悪い。

世の中の動きを見ていたら、この記事のような振る舞いに走るのが、人間の常識?だと思うのだが、我が国の今だけの現象なのか、それとも日本人だけは他国から襲われない!という確信があるのだろう。

 サルが出てきても、クマが出てきても、「お回りさ~ン」と叫べば解決できるからだろうか?イスラエル国民のように「自ら銃をとること」は「悪いことであり」想定外なのだろう。幸せな国だな~