軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

中共空軍創設秘話 その2

1、 八路軍(人民解放軍)に投降
 卑怯にも日ソ不可侵条約を破ってソ連が突如参戦したことと、日本がポツダム宣言を受諾し降伏したため、関東軍の指揮命令系統は崩壊した。
航空部隊であった林少佐の第4練成飛行隊は、地上戦闘用の武器類は貧弱であった。小銃も10人に1丁、将校は拳銃のみであり弾薬も食料も乏しかった。黒竜江方面から侵攻してくるソ連軍の捕虜にはなりたくない。かといって国民党軍(蒋介石軍)にも投降したく無い。林少佐は部下と協議して、瀋陽からさほど遠くない岫厳(しういえん)に異動することにした。岫厳には日本開拓団の農場があり食糧は十分だと考えられた事と大連や朝鮮に近いから船で帰国できるかもしれないと考えたからである。林少佐は何とかして300人を超える部下達を無事故国に連れて帰ろうと決意していた。
そこで10数両の部隊車両で残り少ない食料、弾薬、航空機の機関銃を取り外して積載し、9月9日に瀋陽郊外の奉集堡飛行場を出発した。「流浪の軍隊が安全に行軍できる絶対条件は、敵を作らず無用のトラブルを起こさないことである」と新治教授は書く。
そこで林少佐は3か条の禁止令を部下に通達する。
第1 絶対に農地を踏み荒らさない。新たな敵を作ってはならない。
第2 食料は無償で持ってきてはならない。必ず代金を支払う。
第3 大和民族の名誉にかけて中国の婦人を侮辱してはならない。
これを犯せば農民達は絶対に許さないだろう。この規律に違反したものは誰でもこの部隊に留まる事を許さない。
この禁止令のおかげで林少佐は敗残兵を連れて20日後に上湯(しゃんたん)という小村にたどり着いたが、岫厳は未だ遠かった。
一方状況は日に日に緊迫しつつあった。航空部隊である林部隊は、地上戦闘訓練を殆ど実施したことが無いので、地上戦に巻き込まれることは「全滅」を意味する。林少佐の任務は戦闘を極力回避し何とかして部下全員を故国に帰還させることであった。
上湯に異動して2〜3日経った10月のある日、数人の八路軍の代表が、日本人の通訳を伴って部隊を訪れた。通訳の日本人は満州時代に鳳城県の副県長をしていたといい、彼によると鳳城県には約二万人もの日本人難民が居り、その殆どが林部隊が中国軍と戦火を交えないでほしいと希望しているという。万一戦闘状態に陥ると日本人の生命を危険に曝すことになるから、同胞のことを考えて武器を提出してほしいと要請するのである。
林少佐はその態度から悪意があるとは思えず、理にかなっているので「私の目標は部隊全員の安全で、兵士を無事に日本に連れて帰ることである。一人の兵士が殺されても心が痛むし、まして二万人の同胞の生命がかかっているとすれば、投降は日本軍の命令であるので私達は武器を渡す。ただ希望としては私たちを人道的に遇して欲しい」と述べたところ、八路軍代表は「快く私たちの要求を受け入れていただき心より感謝します。我々はあなた方の大義を重んじる行為と境遇を考え、皆さんに対して歩兵銃、機関銃及び弾薬を渡すことを要求します。しかし将校の軍刀は差し出す必要はありません」と言った。
将校にとって軍刀は軍人の栄誉であり、軍刀を残すとは思いも及ばず、林少佐は八路軍の寛容な配慮に感謝したといわれる。
翌日武器引渡し場所に行くと、空き地に木の机が一つ置いてあるだけで、一人の武装兵もいなかった。八路軍の代表が一人いて武器を机に置くように指示した。
儀式を終わって林部隊員が村に入ると村の入り口に村人達が待っていて拍手で迎え、八路軍の兵士の一隊が出てきて握手を求めてきた。これが八路軍の政策で、武器を放棄したものは皆友人ということであった。

2、 林彪将軍との会見
それから数日後、林少佐以下10名の日本軍代表を鳳城県に迎えた八路軍幹部は、直ぐに瀋陽に向かうように要請した。八路軍幹部は一行に一個小隊の護衛をつけ、少佐らは汽車で瀋陽に向かった。当時、国民党は米国の援助下に、大挙して東北に兵を動かしていたから、東北地方は一触即発の状態にあった。
瀋陽の東北民主聯軍総司令部では林少佐ただ一人が三人の八路軍高級幹部の前に招き入れられた。「この方が林彪司令官です」と告げられた林少佐は耳を疑った。林は当時34歳であったが、少佐より2〜3歳年上だろうか、有名な林彪将軍は、全東北地方を指揮するにしてはとても若いと思った。続いて彭真、伍修權という二人の余り知らない名前を聞いたが、彼らが当時中国共産党東北局書記と東北民主聯軍の参謀長であった。林(リン)と林(はやし)と言う取り合わせも奇妙な縁であったが、八路軍は、空軍と海軍を持たない歩兵中心の軍隊であったから、国民党軍、更には日本軍からの攻撃には対抗すべくも無く、昼間の行動は極端に制約されていた。「空軍があれば」というのが彼らの長年の悲願だったのである。
遼東半島の東南にある奉集堡飛行場に駐屯していた第4練成飛行隊・林部隊に、林彪らは空軍創設のための協力を要請することにしたのである。
彭真は「我々は過去において空軍が無く、戦争の時には非常に困った。空軍の建設に是非協力してもらいたい。終われば諸君の帰国に協力することは勿論、その間の生命、財産を保証する」と言ったという。生命は当然だが、今や林部隊員には財産というべきものもあろうはずもない。しかも降伏した身、断ることも不可能であったろう。
中国共産党は、大東亜戦争終結以前に、抗日戦争が終わった後の時局の発展方向を既に予見し、強固な東北根拠地を作ると同時に、航空学校を創設し、幹部を要請して人民空軍を作ることを計画していた」と新治教授は書いているが、国共合作支那事変を引き起こした盧溝橋事件も彼らが計画的に実行したものであり、日本軍「敗退」後は、本来の敵である蒋介石打倒こそが、彼らの最終目的なのであった。
日本の関東軍満州にいたので、飛行場や航空機もあり、航空事業を起こし空軍を創設する条件は整っていた。したがって中国共産党は党が養成した一部の学生と航空知識がある幹部を東北に派遣することとし、9月には延安から航空研究組長王弼と副組長常乾坤という航空技術幹部を派遣して、急遽東北で航空学校の建設に着手していたのである。しかも最初に延安を出発した劉風、蔡云翔などの5名は既に瀋陽に到着していた。中国共産党としては、現在直ちに使える日本の航空部隊を是非迎える必要があったのである。
林少佐は襟を正して聞きながら、彼の本心としてはこの重大で面倒な任務は引き受けたくなかった。目前のことを考えればできるだけ早く300命余の部下達を安全に帰国させ、部隊長としての責任を果たしたかった。
「空軍建設は複雑な問題で操縦士を育成するのは特殊な任務であり、一年や二年で出来るものではない。現在何もわからない段階で、一途に帰国を望んでいる若い兵士達にどのようにこれを伝えて納得してもらえるか。部隊は既に武装解除され、私は彼らを指揮する権限は無い。皆と相談して要求と条件を率直に伝えその上で決めたい」というと、「あなたの言うことは道理だ。ところでどのような条件があるのか」という。
少佐は少し考えてから丁重に次のように述べたという。     (続く)