軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

日本国民は目覚めるか?

昨日は、同志が主催する個人的サロンで、米田健三帝京平成大学教授の話を聞いた。約一時間半、「日本の安全保障政策の欠陥について」という題で、基本的にはオフレコの会合だが、実に平易で分かりやすく、狭い部屋を埋めた30人以上の、特に若い男女に相当なインパクトを与えたように感じた。
米田氏が内閣府副大臣だったとき、防衛担当者の専門的意見が聞きたいと、議員会館に呼ばれて一時間弱話をしたことがある。昼休みの時間で30人以上集まったが、バッジをつけた議員は確か7人?だったと思う。他は若い秘書たちだったが熱心にメモを取っていた。自衛隊の悩みなど防衛の現実問題を話したのだが、質疑応答で私は政治について「自民党は腐っても鯛だ、と国民は信じてきた。しかし冷静に見ると実は「鯛」ではなく、腐った「いわし」だったことに国民は気が付いた」と皮肉ったところ、議員の一人が「先生、いわしは今じゃ高級魚だ」と混ぜ返された。一同爆笑、この程度か!と私はさびしく感じたものだ。
その後米田氏と副大臣室でしばし懇談したが、彼独特の防衛問題、国家観に関する真剣さに感心したことを覚えている。
昨日の話は、それにも増して「浪人中?」の経験からか、憲法改正問題、日米安保の信憑性、外交のあり方、国民の「変化」などについて、生き生きと適切な例え話を挿入しながらの防衛問題解説は聴衆の気を引くに十分だった。
横田滋氏も同席していたから、拉致問題に関する関心も高く、いかにこの問題の初期に、政治家や関係部署、マスコミの無関心が悲劇を招いたかも良く分かった。
質疑応答も活発で、予定時間を過ぎたが、余韻はなかなか収まらなかった。

私は彼の話を聞きながら、こんなことを考えていた。
日米関係については、先日見た映画「西部開拓史」を思い出しつつ、米国は当然「開拓者」、日本は「インディアン?」の関係ではないのか?と思った。インディアンたちは祖父伝来の地を奪われまいと勇敢に戦ったが、衆寡敵せず、居留地に押し込まれ、やがて同化されていった。そんなところが「大東亜戦争」の日本人と「西部開拓史」のインディアンたちの境遇が似ているように感じられたのである。しかし、インディアンは未だにプライドを持っているが、我々現代日本人は果たしてどうか?

日米安保条約上、日本を守る米国の義務履行については、日米関係を、たとえば日韓関係に置き換えてみたら分かりやすいだろう。
つまり、米国=日本に例えて、日韓同盟が存在したとする。38度線に北朝鮮からの危機が迫り、日本政府に対して韓国政府が「条約に基づき」自衛隊の出動を要請した場合、日本政府や国民はどう反応するだろうか?ということである。
多分「なんで韓国のために自衛隊員が血を流さなくてはならないのか?」と朝日新聞がまず書くのではないか?いや、産経新聞かもしれないが・・・
韓国では近すぎる。仮にイラクと安保条約を結んでいた場合には、そんな遠くまで出かけて日本人の血を流す必要があるのか?という世論になるだろう。
他方、政府は「いや、石油確保のため、国益のため出すのだ」と言うだろうから、国内マスコミは侃々諤々だろう。いずれにせよ、つまるところは自分のことは自分でやれ!と大合唱になるに違いない。

戦後日本がここまで落ち込んだのは、「敗戦後遺症」が底辺にあると米田氏は言ったが、それは勿論だが、私は「実は“敵の回し者たち”が、国内要所に潜入していて、日本人の抵抗力を奪い、骨抜きにして、自国の安全を確保しようとする“間接侵略”が功を奏しつつあるのだ」と思っている。日教組然り、政界然り、経済界も、大学にも、研究所にも、勿論防衛関係にも、その手は張り巡らされている様に感じる。

ところで、今朝の産経新聞で「敵基地攻撃論」の連載は終わったようだが、「問題めぐる3氏の視座」は興味深い。
3氏とは、前民主党代表の前原誠司氏、元統幕議長の西本徹也氏、自民党総務会長の久間章生氏である。
前原氏は「韓国などを刺激しないためにも、敵基地攻撃について論議すべきではない」といいつつも、「矛の能力はある程度必要」だという。
西本氏は元自衛官だから「日米同盟の有効性を担保すること」で、「米国はこれを絶対座視しない」という政治的ステートメントを日米共同で発しておくことが必須だ、とし、そのためにも集団的自衛権行使の憲法解釈を変えるべしと言う。当然だが、「安全保障会議を活性化し、閣僚メンバーを限定し責任を持った話し合いが出来る態勢にすることが求められる」としつつも、「統幕長も陪席でいいから参加させるべきだ」というのは聊か腰が引けているのではないか?軍事専門職の統幕長を同席させてこそ「安保会議」の活性化が図れるわけで、当然メンバーにすべきである。
久間元防衛庁長官は、敵基地攻撃論は「真剣に討議する必要はある」としながらも、「攻撃に必要な装備を自衛隊保有するのはなかなか難しいだろう」といい、日本がそこまでするなら「米軍基地を減らせ」という議論にもなってくるし、「安保条約はいらないのではないかという議論」が出てくるし、「日本が敵基地攻撃能力を持とうとすれば、これに過剰反応する国が出て、軍拡競争につながる恐れがある」というのは理解に苦しむ。最後に「時期を選んで議論しなければいけない」と結んでいるが、戦後60年間、過去の政治家たちは「時期を選びすぎて、何もしてこなかったのではなかったのか?」いや私には、「時期を選んでいたようには決して思えず、出たとこ勝負で、言葉上一時的に糊塗してきた」に過ぎないと感じている。だから今後も「時期を選んで議論すること」なんぞ期待できないと思っている。
3者3様、その特色が出ていて、興味深いが「今は議論の時期ではない、実行のとき」であろう。旧態依然とした古い思想に凝り固まった老政治家たちよりも、今後を担う、若い50代の政治家たちの活躍に大いに期待したい。