軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

米露間のMD摩擦に思う

 昨日書いた「裁判員制度」に関して、司法の現状に鑑み民間の力を・・と言う意見があったが、私も裁判の現状から当初はそれもやむなし、と考えていた。しかし今回の講義で、裁判員を「命じられる民間人」の都合を無視している制度に疑問を持つに至ったのである。「裁判員法の廃止を求める会」が先月28日に出した“緊急アピール”を解説していただいたが、その中に「運用面を見ても、山間僻地や離島などで日夜農漁業等に勤しむ人々を含め、一般国民を罰則を持って強制的に裁判所へ出頭させた上で『裁判員』を命じ、数日間から時には数十日も裁判に強制従事させるというもので(これも憲法第13条違反です)、日ごろ裁判と全く無縁な国民に多大な負担を強いるもの」という部分がある。「全国で年間数十万人を全国60箇所の裁判所へ呼び出し、しかもその8割は数分の質問だけで即時帰宅させられます。もし選任されてしまったら、連日裁判員席に座らされて、一日の欠席も許されず、その上、死刑をも含む複雑重大な事件の証拠分析や判断を迫られる」のだが、日当一万円に惹かれて参加しても真面目な人間であればあるほど、判決に悩んで苦しむことになるだろう。
 この「アピール」は報道各社に配布されたそうだが全く無視されたという。数十日間も連続して裁判に関わることが出来る人と言えば限られてくる。従って国民が知らない間に一方的な思想信条の団体などから専門的に出席する裁判員達に裁かれることになりかねない。拒否すると罰金が10万円だという。
 予備自衛官制度でさえも必ずしもうまく機能していない、というコメントがあったように、それこそ「地球より重い人命」を軽々に扱うことになりはしないか?だから国会議員は「国民に十分説明する義務」があり、今からでも遅くはないから十分説明責任を果たすべきであろう。


 ところで私の専門分野?である軍縮関連で、米露間のMD摩擦が起きている。米国が欧州に配備するMDシステムにロシアが反対しているのである。産経新聞によるとプーチン大統領は「『MD計画が実行された場合には欧州にミサイル照準を向ける』と『冷戦回帰』を警告し、米国への敵対姿勢を明確にした」そうだが、彼には自国の歴史をもう一度思い起こしてもらいたいと思う。
 1964年、ソ連はモスクワの軍事パレードに「ABM(対弾道弾ミサイル)ガロッシュ」を登場させた。

当時の技術力では効果があるかどうか不明な「代物」であったが、ソ連が米国のICBMに恐怖を抱いていた証拠でもあった。1964年といえば「東京オリンピック」開催年であったが、「トンキン湾事件」「フルシチョフ解任」「中国の核実験」が続き、平和の祭典の年らしからぬ雰囲気が漂っていたが、米国は「核の均衡が崩れる」として、丁度今のプーチン大統領のように、非公式にソ連に「ABM制限交渉」を行う提案をした。しかし当時のソ連は全く聞く耳を持たなかったのである。ソ連ICBMの性能は勿論、数的にも圧倒的に米国に引き離されていたのだから、対等になるまでは交渉に応じる筈がなかった。
 翌1967年にソ連は一方的にモスクワ周辺に「ガロッシュ」を配備し始めたため、ジョンソン米大統領は、フルシチョフに代わったコスイギン首相に再度「ABM交渉」を持ちかけたが、彼は「ソ連のABMだけでなく米国の戦略兵器も交渉に含めるべきだ」として譲らず「ソ連のABM防衛システムは『善』である」と声明、交渉開催には合意すると発表した。
 そこでついに米国も『全国的ABM網を配備する』と発表したのだが、これは軍縮交渉においては「自国が保有していない兵器」を制限しようとしても、相手は全くこれに応じないという動かぬ事実を示している。北朝鮮や中国の核兵器削減を、未保有国の日本がいくら叫んでみても全く無意味なのである。そしてその年の11月の軍事パレードでソ連はSS-9という巨大なICBMを登場させる。
 1968年に入ると、フランスのドゴールが『自国独自の核保有』を宣言、7月に実験し9月には水爆実験をする。米国も「ABMスパルタン」の実験を行い、ミサイル捜索レーダーの実験に入る。他方、ベトナム戦争は5月からパリ交渉が始まった。そして6月にジョンソン大統領がSALT(米ソ間戦略兵器制限交渉)の目的として、安定した米ソ間の戦略抑止を達成することだと声明、こうして米ソはSALTに向けて動き出すのだが、1969年3月に、ジョンソンに代わったニクソン大統領が中国とソ連からの核攻撃を防衛するためスプリント・ミサイルとスパルタン・ミサイルを組み合わせた「ABM新規計画(セーフガード計画)」を発表する。この頃中ソは「ダマンスキー島」をめぐって戦争状態にあった。

 こうした米ソ間の思惑が交差したSALTが11月から開始されるのだが、“軍縮交渉”とは名ばかりで、裏では熾烈な“軍拡競争”が行われていたのである。
 交渉は1972年5月26日に一応調印にこぎつけるが、大々的に「デタント」として報道された合意内容は「ABM制限条約」と「戦略攻撃兵器の制限についての一定の措置に関する暫定協定』に過ぎなかった。
 引き続いてソ連は新ABMシステムの開発を始めるが、米国はモスクワに対抗して建設したグランドフォークスでABMシステムの運用に入ったものの、11月10日にABM制限条約を上院で可決した八日後に、その唯一のABM基地であるグランドフォークス基地の閉鎖をこれまた上院で可決するのである。つまり、巨額の予算を使って建設した米国の「ABMシステム」は、ソ連ICBM開発のための時間稼ぎであったと同様、米国にとってもSALTの取引材料に過ぎなかったのである。
 これが「軍縮交渉の虚像と実像」なのであって、私の著書「国際軍事関係論」に詳しく解説しておいたが、自画自賛になるが今読み返しても現実の国際情勢にマッチするところが多く面白い。
 フルシチョフがABM・ガロッシュの配備を一方的に実行し米国に耳を貸さなかったことを、プーチンは思い返してみるべきだろう。
 何よりも「平和国家」日本は、丸腰で他国の武装解除を要求することがいかに無意味で愚かなことであるかを悟るべきである。