軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

誰も責任を取らなかった…

以前ここに、朴大統領の行く末を案じた?記事を書いたはずだが、予想通りというよりも、はるかに予想を超えた醜態をさらして彼女は去ることになったようだ。
だからこの国と付き合うのはホドホドにすべきなのだが、何かというと「一衣帯水、わが国の安全保障上の要点…」などという奇妙な説が流布される。

これも何度も書いたことだが、高名な韓国のジャーナリスト自身が「日韓友好は“絶対に”ありえない」と公言しているにも関わらず、である。
彼は「日帝の支配は36年、米帝の支配は50年だが、シナの支配は1000年だから我々の血の中にはその恐怖が染みついているからだ」とその根拠を説いた。

そして今回の大統領の機能不全によりそのシナからも見捨てられつつある…。自ら撒いた種は自ら刈り取る以外にはなかろう。


彼女から酷い目にあった加藤元ソウル支局長は講演で、日韓両国の首脳外交ができなくなると外交関係が停滞し「昨年12月、慰安婦問題での日韓合意で、在ソウル日本大使館前の慰安婦像の移転など、日本側から『約束したことの念押し』ができなくなること、および11月23日に締結したばかりの、日韓の安全保障分野の機密情報共有を可能にする軍事情報包括保護協定(GSOMIA)も「ほごにされる危機がある」と述べ、「総じて現在の韓国は『不安定感満点』であり、日本の外務省に対しては『国益をかけた議論をしてほしい』」と述べたという。

想い出したが、昨年12月の慰安婦問題の「日韓合意」についても私は大いなる疑念を示したはずだ。この合意した賠償行為は“従軍”慰安婦の存在を認めた行為であり、本質解決ではなく、その場しのぎに過ぎないと感じたからだ。そして盗人に追い銭になる・・と警告した。
すでに支払った10億円は外務省は取り戻す気か? 約束不履行“罪”じゃないか!

ところが武藤正敏・前駐韓大使は「まず10億円を供出すべき。慰安婦像撤去はその後求めればよい」と発言していたから、外交官の資質について大いなる疑問を感じ、彼は“駐韓大使”ではなく“帰化大使?”じゃないのか?と疑問に思ったほどだ。こんな愚かな大使のせいで、税金が湯水の様に垂れ流されるのだ…。


加藤氏は、外務省に対して「国益をかけた議論をしてほしい」と要請したが、未だにそうならないのは、いくら失敗しても、外交官たちは国から責任を取らされなかったからであろうと勘ぐりたくなる。

月末に安倍首相は、オバマ氏と真珠湾で慰霊するそうだが、彼はどこまでその真相を知っているのか?と気にかかる。つまり、真珠湾攻撃が時のルーズベルト大統領によって、それこそ卑劣な「スニークアタック(卑怯なだまし討ち)」に仕立て上げられるきっかけを作ったのが、時の在ワシントン日本大使館だったということを。


昭和16年12月7日(現地)当時の日本大使館では、前日の宴会で館員のほとんどが大使館を抜け出していたせいで、日米交渉文書第14部の暗号電翻訳に時間がかかっていた。
勿論、チャーチルが言ったように、野村と来栖大使が打ちあがったタイプ原稿をそのまま、あるいは手書きのまま抱えて国務省を訪れていたら、午後1時の会見約束を守れたかもしれなかったが、彼らがハル国務長官の部屋に到着したのは午後2時20分、これは日本軍のマレー半島コタパルへの上陸から2時間半後であり、真珠湾への第一弾が投下されてから1時間経過していたのであった。

どうしてそうなったのかは、当時の大使館員らが、「国益」を意識して行動していなかったからに他ならない。


ある日、野村大使の元に届いた須磨大使(スペイン)からの手紙に『先電で申しあげたとおり・・・』とあったが、先電を見ていなかった大使が調査したところ、電報はまだ翻訳されずにそのままだったので、驚いた大使が館員を集めて「国交緊張期のこの際、館員は一層緊張して勤務に励むように」と訓示している。
更に「若杉公使は日本から私が連れてきたのに真剣に働いてくれない。下村海軍少将を補佐官に貰おうかとも思っている…」と周囲に漏らしていたのだが、「若杉公使は松岡洋右派であり『日米交渉反対派』だったから野村大使に逆らってばかりいた。東京に新築した自宅の家具購入に走り回っていて、大使館にいないことも多かった」と後に調査された松平書記官が証言している。


このような当時の大使館内の人間関係は無視され、「海軍のだまし討ち」的贖罪意識だけが戦後の日本人に残ったが、それは「なぜ遅延したかの原因究明がおろそか」だったのであり、外務省が自己弁護で責任を回避したからである。
戦後それを告発したのは当時の在ニューヨーク総領事であった森島守人氏だけであった。
この通告遅れが米国の世論が反日にまとまった最大の原因であり、ドイツとの戦争を希望していたルーズベルトの勝利につながったのである。ルーズベルトが事前に暗号電報を解読していたかどうかはこの際問題ではないのだ。


≪日本との戦争文書に署名して笑うルーズベルト=インターネットから≫

その後「日本は卑怯で信用できない国!」だと米国内で喧伝され、やがて国際法を無視した都市爆撃や原爆投下まで正当化される原因になったことを思えば、外務省の罪はあまりに大きいといわねばならぬ。
しかし外務省の1994年までの一般的公式見解は、「戦争は軍部によって引き起こされ、遅延は【現地大使館の怠慢】によって生じたもので、本省にはいささかの落ち度もない」というものであった。

その後当時の大使館の怠慢ぶりが俎上に上がりだした1994年の外交文書公開後は、姑息にも「本省の体制上の不備も一因」とこっそりと一部修正している。


昭和17年7月の東郷外務大臣の事情聴取では、交換船で帰国した井口参事官は無責任にも「あれは自分の管掌事務ではないため承知しません…」と述べ、その後は東郷外相の辞任でうやむやになっている。
戦後の昭和20年9月に重光外相が事情聴取しているが、これも「事の重大なるを以って加瀬俊一を招致して移牒(他の役所へ文書命令)研究せしむ」とされたものの、重光外相辞任でうやむやになり、昭和21年3月に、守島氏の再進言で吉田茂外相が設置した岡崎総務局長を長とする調査委員会では、一部聞き取り資料を公開したものの、「何らの措置も取られず、責任の点も何ら明らかにされないまま、うやむやのうちに終わった(森島言)」とされている。


ところがその後の処置?が凄まじい。軍部にたてつくのが嫌で、日米交渉関知せずの態度だったと証言されている館務統括を任とする井口貞夫参事官は外務次官を経て駐米大使に出世し、政務担当で、深入りしたくないという態度に終始し、遅延の責任ありとされた奥村勝蔵一等書記官は、天皇の御用掛として天皇・マ会見の通訳を務め、その後外務次官を経てスイス大使に出世している。
吉田が設置した調査委員会の岡崎委員長は、2度の事務次官を経て国会議員となり吉田内閣の官房長官、外相を歴任しているのである。


イヤ、戦後のどさくさで外務省も人材確保が困難だったろうから、貴重な人材を生かして活用したのだというのであれば、国民は納得しよう。
しかしその日の食さえも苦労していた国民が無関心だったことをいいことに、一部の高官たちが、お手盛りで自己弁護していたとするなら言語道断というべきではないのか?

しかも開戦責任の遅れた責任のほとんどを、東條英機元首相をはじめとする軍人に押し付け、ノウノウと出世していたとしたら、英霊は浮かばれまい。


外交には相手がある。いくら“最後通牒”が遅れた理由を日本側の手違いだとして相手に説明しようとも、肝心要の本人たちが「一切責任を問われていない」ばかりか、逆に高位高官を極めているという事は、外国にしてみれば国家に貢献したことを証明するに十分なものであり、日本国民がそれを認めていることになるから、ルーズベルトどころか、米国人が信用するはずはない。国際的常識として通用しないのだ。

こうしてわが国がとった行動の評価は世界各国から信用されず、卑怯な国というレッテルが張られるのである。
“従軍”慰安婦問題も、南京“大虐殺”問題も、当時から韓国とシナに駐在した外交官らが、根気強く機会をとらえて否定して反論するべきだったにもかかわらず、“社交と友好”それにゴルフに明け暮れていたから、今のような外交上の大失態が続いているのである。


「済んだことは仕方がない」とか、「なにを今更蒸し返すこともあるまいに…」などという日本人的な発想は、血で血を洗う国際関係には通用しないことを、外交官自身が自覚していないのであろう。これでは今後とも、このような失態はなくならないだろう。


ただ、東京都に限ってみれば、豊洲市場問題では、無責任な“仕事”に明け暮れていた都庁のお役人様たちの一部に鉄槌が下された。信賞必罰が適用されたのである!
まだまだ頭の黒いネズミたちが、あちらこちらに巣食ってノウノウとしているようだが、なけなしの税金を納めてきた都民には納得がいかない。

五輪会場問題でも、うまい汁を吸ってノウノウとしていた連中が、少しはまともな動きをしているかのように見せかけているが、責任を取らないという点では、日米開戦時の日本大使館員らと同様、少しも変化していないというべきだろう。
女性知事に「泣いて馬謖を斬る」覚悟を求めるのは酷だろうが、せめて「信賞必罰」を発揮してほしいものだ。
そうでなければ、まじめに下積みで苦労している多くの都の職員たちからやる気が失せるだろう。徹底的に膿を出さなければ、悪がはびこり、善が委縮しかねない。

大山鳴動して「だれも責任を取らなかった…」にならぬよう、老兵は目を光らせているつもりである。


ところで、話は変わるが、先週の水曜の夜、岩国基地所属の米海兵隊FA18戦闘攻撃機高知県沖に墜落し、翌日、海自US2がベイルアウトしたパイロットを収容したが、既に死亡していたという。事故発生時の記事は大きかったが、その後、パイロットが死亡したことはほとんど報じられなかった。奇しくも収容された日は日米開戦の日であった。
情報によると、死亡したのはジェイク・フレデリック大尉(32歳)で、官舎には近く出産予定だった夫人と小さな息子さんが残されたそうだ。
フレデリック大尉の家庭は父親はじめ兄弟も皆パイロットという一家、気丈な母親は「息子は空を飛ぶことを夢見て育ち、その夢を叶えたのだ」と語ったらしいが、同じく空に生きたものとして、同時に守ってもらっている日本人の一人として心から哀悼の意を表したい。

ところでこの事故をトランプ次期大統領はどう思うだろう?
何で極東の小さな島国を守るために、米国の青年が死なねばならないのか!と経済大国らしからぬ同盟国の虚弱体質を怒るのではないか?

それにしても「おもてなし!」とか「おかげさま」「感謝」という言葉を愛するはずの日本人の、同盟国軍人の悲劇に対する感情の希薄さにあきれるばかりだ。
尤もこれは偏向メディアのせいなのだが…

日米戦中の昭和20年、鈴木貫太郎内閣成立の5日後の4月12日午後、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルト心筋梗塞で急逝した。
その時鈴木首相は同盟通信を通じ、ルーズベルトの政治的功績を認め、「深い哀悼の意をアメリカ国民に送る」というステートメントを出した。
それが世界各国で大きな反響を呼び「敵国元首の死に哀悼の意を捧げた日本の首相は、まことに立派である。これこそ日本武士道精神の発露だ。ヒトラーが、この偉大な指導者の死に、誹謗の言葉を浴びせたのに比べ、なんという大きな相違か」などと言われた。(鈴木貫太郎小堀桂一郎著)
それに比べて今の日本人は、金のことしか考えない小粒で貧相で、何とも情けない民族に成り下がった!・・・・「昭和は遠くなりにけり」か。




≪就任直後の鈴木貫太郎=インターネットから≫


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「軍事研究1月号」
巻頭言に「トランプ就任をわが国防衛力整備の転機とせよ」と志方俊之OBが書いているが、果たしてわが政治家の何人がこれを読むだろうか?
それよりも、カジノ法案を成立させて、今度は“パチンコマネー”よりも巨額な“カジノマネー”を胸算用しているのでは?
カジノは彼らのような守銭奴ロートルには影響がなかろうが、将来を担う青少年の健全な育成には大きな不安が残る。自民党政権下での最大の悪法にならねばいいが…。


ジャパニズム34」
最近はなかなか充実してきた。若者向けに定着してきたらしい。それも他誌では腰が引けるような世の中の動きを敏感かつ正確に報じている。
特に筆者に若い女性が進出していることには驚かされる。
既成メディアが報じない新鮮さが感じられるのだが、既成メディアは“取るに足らない”ジャパニズムを気にしているだろう。



「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄=史実を世界に発信する会が出版した英語版」
外務省が公費で支援すべき活動は“従軍慰安婦”“世界遺産”問題など多岐にわたるが、これもその一つである。11月25日にアメリカで出版されたもの。
国際的歴史戦に向けて強力な武器にしようと関係者は意気込んでいる。
外務省が仕事をやらないから、ドンドン民間人が手弁当でこのように活動している証しである。
最近の地上波TVの中にも、例えば「和風総本家」のように日本の職人たちの活動を、世界中に紹介する番組が増え、日本に対する理解が深まっているが、これらの活動は真珠湾攻撃時の外務省のサボタージュを補う良い材料になりつつある。
それにしても、官の指導力には限界が近づいているのかも〜

ある駐米海軍武官の回想

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空母 (第二次世界大戦文庫 (23))

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暗号戦―敵の最高機密を解読せよ (第二次世界大戦ブックス 63)

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神風特攻隊―地獄の使者 (1971年) (第二次世界大戦ブックス〈24〉)

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昭和天皇とその時代

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