軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

大学の幼稚化と高校の進学塾化

 それにしても教育機関の“断末魔”は凄まじい。一連のいじめから始まって、自殺、未履修問題と、止まるところを知らない有様で、連日教育関係者が「雁首揃えて謝罪」する有様が放映される。
 現役時代、入隊してくる青少年たちの行状はもとより、自身の子供の学習状況を時たま観察しただけでも、その「荒廃ぶり」は凄まじく、今の日本の状況が推察できたものである。防衛研究所で学習していたとき、時の文部次官が講話したが「40人教室を整備するのに予算がいくら」だとか「教師の数と建物数」などの比較ばかりで、居並ぶ陸・海・空の1佐や官僚、米国の留学生たちに「失笑」をかったものであった。
 しかも事情通によると、次官本人は自分の子供たちは「私学」に通わせているというから何をかいわんやであった。そんな無責任「文部官僚」が、その後平然と教育評論家などになって、いっぱしの学説を垂れ流していたのだから、納税者たる国民は良い面の皮であった。「学問」の何たるかという基本を身につけていない連中が、この国の教育を牛耳っているのだから、生徒が全うに育つはずはない。
 東北のある基地で勤務していたとき、例の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」が発覚し、高級官僚の中でもとりわけ“高級”なはずの大蔵官僚が、Tという会社会長?と香港に、チャーター機で「買春」に行ったことまで公表され、公に尽くすべき官僚たちのお粗末な実態が国民に知れ渡ったことがあったが、ちょうど“散髪中”にテレビで知った散髪屋のおかみさんが「司令さん、この人たちは何を勉強していたのでしょうね・・・」とため息交じりに話しかけてきた。
「私は本を読むのが好きで、中学まで一生懸命に本や教科書を読んだ。しかし、家が貧しかったので、高校に進めず、母が手に職をつけなさいといって理髪専門学校に入れてくれた。それでも本が読みたくて、高校に進んだ同級生たちから高校の教科書を借りて必死に読んだものだ。巡回図書館が来ると真っ先に駆けつけて本を借り、貪るように読んだが、本当にためになった。そして専門学校で主人と知り合って幸せになったが、テレビに出ている人たちは、恵まれた生活、立派な学校、それも東大という最高学府まで進んでお役人さんになっているのに、あの人たちは学校で一体何を学んだんでしょうね」と言ったものである。
 返す言葉がなかった私は「おかみさん、東京大学に進むだけが人生じゃありません。今じゃレベルが下がって“東京大学”ならぬ“頭狂”大学といわれるほどですから」というと、ご主人が声を上げて笑ったものである。
 大学生の学力低下はこれまた凄まじいという。友人の教育専門家は「いまや大学には暇をもてあます“キャバクラ壌”が入り、学内恋愛に興じているくらい」といったことがあったが、当時はいくらなんでも大学生に“失礼では?”と思ったものであった。しかしいまやそれは現実である。
 しかも悪いことに、少子化の影響で、大学も「営業」が苦しいので人集めに躍起となり、“外国人”を優待しているという。折角国が進めた専門学校事業も、大学に入るのが容易になったせいで次々「倒産・閉校」しているらしいから、いずれ昔の石炭事業のように消えていくのかもしれない。
 高校も偏向教育のみならず、今頃公になったが、実際ははるか以前から「進学塾化」していたのである。大学入試時の問題は、理工学関係は相当厳しいので、文科系の安易な科目選択に走る。教師たちも、進学率が下がるのは自分の「お飯」に影響するから、競って文科系の“楽な受験科目”を推奨する。その結果、人間として必要最小限の常識は勿論、円満な人格は育成されず、社会に出ても常に「楽なもの」を選ぶ癖がつく。この「未履修科目」問題は、決して今に始まったことではなかろう。教育委員会も、現場教師も、勿論文科省も、知っていながら「見てみぬふり」をして来たに違いない。そんな連中が、今では優雅な年金暮らし?をしているかと思えば、一日一日をまじめに「文句を言う相手も知らされずに」大根半分、トマト一個を買い求めて社会の片隅でつましく生活してきた人たちにどう申し開きが出来るというのか!
「無責任体制」とそれを「放置」してきた責任者たちを「つるし首にしてやりたい!」と思っている国民は多いのではないか?
 前述した文部次官の様な、無責任で「教育の何たるか」に全く関心がない人間を、教育の最高責任者にしてはならないのである。
 子供たちは「犠牲者」である。いい年をした“大人たち”の「猛省」を促したい。