軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

NHKに放送命令?

 昨日のブログに対する『コメント』は極めて有意義だった。質の高いご指摘、ならびに情報に感謝申し上げる。

 ところで、今日は別件だが、拉致問題に少しばかり協力してきた私としては、今回の「NHKによる放送」計画に大いに賛成である。考えてみるが良い。“国営”放送としての権威をちらつかせて聴取料金を半ば“強制的”に取ることに必死になっている割には、放送内容には著しい偏向があり、多くの国民から敬遠されつつある。
 以前問題になった、朝日新聞編集委員松井やより女史が計画して「教育テレビ」で放映した「天皇戦争犯罪裁判劇」などはその一例であり、そしてその決着はまだついていない。
 国民の税金を投入して運営されているのに、その国民が非情にも外国に「拉致」されて、救出を待っているにもかかわらず、国はその家族から税金を免除することなく、救出活動も一切してこなかった。むしろ、左翼政治家は勿論、政府要人さえも「事実を否定」してきたのであった。その間のご家族たちの戦いは、「国に見離された孤独な戦い」であった。それが、小泉訪朝で、相手の親分が「犯罪行為を認めた」にもかかわらず、国は積極的な救出活動に踏み切らなかった。
 そこで「被害者」とその支援グループが立ち上がり、“手弁当”でこれまで活動を続け、国民の大半がそれに協力を惜しまないところまで来たのである。
 今回のNHKに対する放送“命令”は、荒木代表らが手弁当で続けてきた活動の一部である北朝鮮向けの短波ラジオ放送『しおかぜ』を支援するものに過ぎない。
ようやく国も本腰を入れる気になったか、と思った瞬間、片山元総務相たちが、記者会見で「報道機関に命令ということがなじむのか?」と反論したから驚いた。
 表現や言論の自由などと、いかにも「進歩的文化人気取り」の発言が目立つが、「拉致された被害者の自由と人権」は誰が保障するのか?
 菅総務相は「北朝鮮で必死に生き抜いている拉致被害者に勇気と希望を持ってもらいたい。そのために政府として出来る措置をとることにした」と語ったが、全く同感である。これこそが国民の生命と財産を預かる「政治家」が発する言葉であろう。
 一方NHKは、「拉致問題の重要性にかんがみ、これまでも国際放送のニュースや番組でこの問題をきちんと取り上げてきた。今後も自主的な編集のもとできちんと取り上げていく」とコメントしているが本当か?
 私はNHKの国際放送を聴いていないから分からないが、国内放送でも、前述した「裁判劇」など、聊か常軌を逸したものが「きちんと取り上げられている」から「今後も自主的な編集のもとで取り上げていく」というのなら認識不足だし、効果は無いように思う。
 現に“風前の灯”状態の国民の生命よりも、「表現の自由言論の自由」が優先するというのなら、「拉致被害者たちの生命の保証と行動の自由」とを比較して、政府としてはどちらが優先するかを、これを問題視する政治家たちに説明してほしい。
 ある首相は「人間の生命は地球より重い」という名言?を吐き、盗人に追い銭で問題解決を図ったことがあったが、「拉致被害者の危険な境遇」と、残されたご家族の状態を考えれば、まさに「超法規的」措置が必要なのであり、「拉致被害者の命は、表現や言論の自由より重い」のではないか?
「普段は、ゴルフ・マージャン・カラオケに現を抜かしながら、片手間に“言論の自由”などという戯言を吐くのはいい加減にせい!」などとは決して口には出さないが、国民の気持ちと大きく乖離していることは確かだから、「顔を洗って出直せ!」くらいの事は言ってもかまわないだろう。
 安倍首相は「拉致問題の解決が国の重要課題という観点から法に基づいて諮問する。もし審議会がイエスと答えたなら命令を出すことになる」と述べたが、当然である。国民が巻きこまれた「解決困難事態」に際して、政治家や国家機関が保身に汲々として「手助けせず」、国民自らが「手弁当」で戦わねばならない状態は「異常」であり、こんなことが日常化すれば(一部既に日常化していると私は感じているが)、やがて国民は政府を見放すときが来るだろう。
 しかもその一方で、国民が汗水たらして納めた税金を、岐阜県庁のように組織ぐるみで「裏金」を作って搾取し、社会保険庁のように湯水のように「使途不明金」として垂れ流して責任も取らないのでは、いずれ国民から見放されるときが来るだろう。
いや、既にその時が来ているように私には思えるのだが・・・
北朝鮮問題、とりわけ「拉致問題」は剣が峰に立っている。大所高所からの判断を期待したい。