軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

年頭に思った事

新年、おめでとうございます。
昨年から始まった、世界規模の大変動は、今年は政治、経済のみに留まらず、地球をはじめ宇宙天体を含む規模の大変動に至るような気がします。

そんな中で我が国が平穏な年頭を迎えることが出来たのは、まさに天佑神助によるものではないかと思われ、神の国・日本の面目躍如に思われます。
それを示しているのが、2日の一般参賀に、平成で2番目の9万6千人超が祝ったことでしょう。天皇という無私のお方を戴いている国の幸せを痛感します。


≪2日の参賀には平成で2番目の9万6千人超が祝った。≫


さて、3日の産経は「主張」欄で「日本文化・守るべきもの見極めたい。変化を超えて伝統に誇りを」と書きましたが、大晦日から元日にかけて、私はそれを痛感していましたから、全く同感でした。

晦日にいつもは聞こえていた近所のお寺の除夜の鐘が、ならなかったのです。
煩悩を祓って新年を迎えるというわが国独特の風習が、また一つ消え去ろうとしていると報じられていましたが、まさか実地に体験するとは思いませんでした。

きっと今年は、煩悩まみれの穢れた姿のままで、新年を迎える日本人が多かったはずです。


元日、好天に恵まれたすがすがしい朝、玄関に日の丸を掲げましたが、その後、近在の八幡様に初詣をした行きかえりに住宅街を注意して見渡しましたが、国旗を掲げている家は全くありませんでした。
松飾も門松も立てない家が増えていて、これが日本国の姿だろうか?と悲しくなりました。その割には神社で手を合わせ“祈願”する人が多かったのですが、お迎えの準備もせず、願い事だけするのでは神様に失礼でしょう。神様もきっと御迷いになると思います。加護すべきかどうかと…
神社、仏閣も除夜の鐘同様、消え去る運命にあるのでしょうか?

新年は、身を浄め、家の埃を祓って、神様をお迎えする日だと親から教えられてきましたが、近来は何と不作法で、怠け者の日本人??が増えたことか、と嘆かわしくなります。
人間は堕落するのは簡単ですが、精進するのは難しいものです。

そんな時にこの主張を読んだので、産経新聞も同じ気持ちだったのか、と嬉しくなりました。僭越ながら、添付しておきますので、よろしければご一読ください。


≪【主張】日本文化 守るべきもの見極めたい 変化を超えて伝統に誇りを

 事始め、御身拭い、おけら詣り、除夜の鐘に初詣、七草がゆ、初釜式…といった伝統行事は、いずれも年末年始の京都の風物詩である。同様の風習は各地で行われていただろうが、姿を消したものも多い。

 このうち、除夜の鐘の意外なニュースがこの暮れに注目を集めた。騒音扱いされて、突かれなくなったというのだ。さらに時間を昼間に変更したところ、参拝者が増えた。現代のライフスタイルに合わせたということだろうが、やはり本末転倒である。

 そもそも鐘の音は聞くものだ。除夜の鐘は、人が持つとされる百八の煩悩を救うために鳴らすのである。参拝者に突かせてくれる寺に参るのも信仰の形の一つだろうが、自宅で鐘の音に耳を傾け、静かに一年を振り返るのもいい。

 むしろ、除夜の鐘を毎年聞いていたであろう不特定多数の人がいたはずだ。毎年ほのかに聞こえてくる鐘の音が聞こえなくなって、がっかりしてはいないか。

 幸い、京都で除夜の鐘は風物詩であり観光資源の一つでもある。年末の新聞には毎年「除夜の鐘ガイド」が掲載され、訪れる人で各寺は大にぎわいだ。そこには騒音と思う人もいるまい。信仰が風習となって庶民に根付き、やがて文化になるという過程である。

 
 「原点回帰の古都暮らし」

 沖縄出身の歌手、安室奈美恵さんが昨年、京都に家を購入したと話題になった。かつては文豪・谷崎潤一郎しかり、この町に住もうとする文化人や芸能人が多いのはなぜか。京都ブームといわれ久しいが、移住であれ別荘であれ、旅行者ではなく「住んでみたい」と思わせる何かが京都にはある。

 理由の一つは、そこに日本文化の源泉があるからだろう。例えば、和室の原型ともいわれる書院造り建築や庭園、能、茶道、華道といった、こんにち日本の伝統文化と呼ばれるものの多くは室町時代の京都で花開いた。

 それは、安土桃山時代を経て江戸時代に熟成される。宮中行事が公家や武家に、やがて庶民へと姿を変えながら広がるのである。ところが、明治維新で「文明開化」の荒波にさらされ、都だった京都でさえ一地方都市となり、都市化・現代化した。

 近年は国際化が進むなかでも、依然として町に息づく和の文化に、たやすく触れることができる。それは、先の大戦での空襲被害がほとんどなく神社仏閣が残されたこと、町とともに庶民の暮らしも残ってきたことなどが要因だ。風習や生活文化は日々の暮らしの中にこそ存在する。

 言い換えれば日本人であることの誇り、喜びがまだそこにある。日本人が失いつつある「日本の心」が根強く残っているのだ。


 「歴史の中に本質をみる」

 かつては学生は修学旅行で京都に来て、日本の歴史、伝統文化に触れた。ところが最近では行き先が京都ではなくなり、さらには日本ですらなくなっている。

 地域差もあるが、全国修学旅行研究協会の調べによると、平成26年度の全国の公私立高校での海外修学旅行の実施率は公立高校では9・4%、私立高校では35・0%に上った。多少の増減はあるものの、この10年間は公立でも約1割、私立では約3分の1が海外旅行を選んでいる。

 また、社寺を見学するのは特定の宗教を特別扱いすることになるなどという、まったく的外れな指摘もある。世界のどの国を見ても、古い固有の文化と宗教は密接につながっているものだ。日本でも、神道や仏教によって、建築や芸術、音楽などの日本文化がはぐくまれてきたことは明らかである。一例を挙げれば、華道は仏に供える仏花から、茶道は禅と深く結びついて発展してきた。それを知らずして、日本文化の本質を理解することはできない。

 とはいえこんな話もある。京都市左京区下鴨神社では、願い事を書いた絵馬の上に貼って隠す個人情報保護シールが人気だという。これも時代の流れだろう。変わっていくもの、守るべきものを見極めることが肝心だ。

 清少納言が「枕草子」に「近うて遠きもの」として、こう書いている。

 「師走の晦日(つごもり)の日、正月(むつき)のついたちの日のほど」

 同じ1分1秒でも、年越しの夜はやはり普段とは違う。この感性にこそ、日本文化の核がある≫


 日本文化を代表しているのは確かに京都に勝るものはないでしょう。しかし、京都に行かねばそれが確かめられないというのでは実に情けないでしょう。
「現代のライフスタイル」? 過去に学ばぬ“現代”ライフスタイルなんぞ百害あって一利なしでしょう。


私が住む東京都の一隅だけが特別だというのであれば、まだ我慢できますが、こんな“文化破壊”が国内に蔓延しているのであれば、実に由々しきことではないでしょうか?

しかも「宮中祭祀」を欠かさず行っておられる天皇陛下を察することなく、今や軽々に論ずる輩が多く、どうもどこかの国の指示で動いている「日本破壊工作の一環」ではないかとさえ勘ぐられます。
畏れ多くも皇室に対して臣民ごときが意見をさしはさむなどとは言語道断、身の程知らずもいいところでしょう。これを昔の青年将校たちは憂え「君側の奸」として断罪したのです。


「主張」が論じたように、「豊かな感性を失った」日本国民は、もはや日本国民ではないのです。日本文化の核が失われつつあることは、わが国の将来を脅かす、恐ろしい大変動なのです。日本国が日本ではなくなるのですから…。
「日本文化の衰退」は目には見えにくいものだけに、よほど注意して見張っていなければなりません。国にはその気はないようですから、今年は、心ある皆様方とともに、ご先祖様から受け継いできた日本国の伝統と文化を絶やさないように、気を付けていきたいと思います。

力を合わせて、身近な伝統や風習、文化を絶やさないように努力してまいりましょう。
若者たちが乱れているとすれば、それは大人たちの「教えざるの罪」によるものです。


今日は、近在の神社の初詣で目に入った「日本らしいおだやかな風景」を紹介します。


≪元日の富士≫

≪元日、浅川のほとりで休む鵜の群れ≫

≪元日、土手の上で休む白鷺一家≫

≪元日、同じ土手で孤独を楽しむゴイ鷺君≫

≪元日、朝食中の白鷺君≫

≪元日、近くのお地蔵(子育て地蔵)様、ご開帳≫

≪3日午後、裏山から富士山を≫

≪3日午後、近くの大学構内の池で、昼食中の白鷺君≫

自然界には、人間界のようなストレスがなさそうなのがうらやましい!!

波乱が予想される今年の皆様方のご多幸をお祈りします。