軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

第2の『通州事件発生』を警戒せよ!

今朝の産経新聞トップに,中国・大連で『日本人学校の教材没収』という見出しが踊った.
『大連日本人学校で,日本から取り寄せた社会科などの副教材10種128点が,内容に問題があるとして大連税関に差し押さえられた事が,27日に分かった』という。ついに非常識もここまで来たか!とあきれ果てた.ところが『学校側は一部没収や罰金の処分を受け入れ決着した』とある.これまたあきれ果てて物を言う気にもなれない.どこまで日本人は『自国の物差し』で,自分に都合のよいように『事勿れで曖昧に決着する気』なのだろう.これが中国側の「付け目」なのである事に気がつかないのだろうか.国内政治ならいざ知らず,ことは『国際問題』である.
万一この場はこれで収まったにしても,やがて再び火をつけられ,今回以上の『要求』が出てくることは火を見るよりも明らかである.ところが今までの『古い政治思想の持ち主達』の手法は,自分の時さえ『うまくかわせば』後任者が苦労しようがしまいが,『我関せず』で済ましてきた.
だから,後任者は『嘘を嘘で固めて,とりあえず回避』しようとする.こうして際限なく『後任者負担』が続けられるから、はるか『最後尾?』で仕事についた『担当者』は,『どれが嘘なのかそうでないのか』全く分からなくなり混乱する.その混乱振りを『相手の中国だけではなく,同盟国・アメリカ始め,世界中が注目している事』に全く気がついていないのである.
一時凌ぎの『嘘も方便』,『自分の任期中だけは平穏に』という官僚達の事勿れ主義が,国の将来にどれほど『禍根』を残してきたか!
外交は,基本的に『相互主義』である.我国に来ている中国人に対しても,日本人拉致事件に大きな役割を果たしてきた朝鮮人学校などについても,大連市当局並に徹底的に『検閲』し、我が国益に反する『教材など』を没収すべきである.『眼には眼を!』とまでは言わぬまでも,こんな弱腰の対応を何時まで続ければ気が済むのか,国民の多くは『怒って』いる事を関係者は胆に銘じるべきである.
御存知の方もおありだろうが,昭和12年7月7日,中国共産党によって仕掛けられた盧溝橋事件が勃発し,我国は『予想だにしなかったシナ事変』に巻き込まれていったが,それを合図のようにして中国各地で『反日襲撃事件』が多発した.その中でももっとも『悲惨』だったのが『通州事件』である.新聞協会編『日本戦争外史…従軍記者』の中に「安藤利男『通州脱出の記』」という記録があるが,これを読めば現代の若者達も,戦争と言うものがどうしてなくならないか?と言う疑問について多くを学ぶであろう.今では入手困難な『古書』だから,一部を引用しておこう.
『天津の日本租界も28日深夜から中国側の急襲を受けた.居留民義勇軍バリケードを死守し,かろうじて(中国軍の)突破をまぬがれた.婦女子は屋根裏や押入れに隠れ,窓は布団を釘付にして銃弾を防いだ.通州へたつ前,天津に残した妻子も屋根裏にいた.天津襲撃が通州の深夜の反乱と同じ時刻だったのも,中国軍の一斉蜂起を物語る.京津線がだめになったのを知った私は,通州北京街道を帰ろうとしていた.…ところが通州とて日華の衝突は例外ではなかった.27日払暁には,新南門外通法寺を兵営とする宋哲元29軍1部隊を日本軍通州守備隊菅島部隊が攻撃,激戦があった.29軍を追い払うと菅島隊は北京南苑方面に転進,残ったものは通信兵,憲兵兵站などせいぜい百名ちょっと,通州の日本軍主力は留守同然だった.それに今一つまずい事に通州事件誘発の直接の切っ掛けとして見落とせない日本軍航空部隊の誤爆事件と言うものが起きていた.
これは27日の29軍攻撃の際に飛来した日本軍機が,29軍兵営と境を接する通州冀東保安隊幹部訓練所を間違って爆撃したと説明される事件である.幹部に数名の死傷者が出て保安隊側は激昂した.味方と信じていた日本軍から爆弾を見まわれたわけである.冀東指導に専念していた通州の日本特務機間長細木中佐は窮地に立った」
保安隊長官と細木中佐が保安隊幹部を説得慰撫し,動揺は一応収まったかに見えたが,日本軍に対する疑惑の雲は通州を覆っていたのである.安藤氏はこんなに不穏な事態が潜んでいるとは露知らず取材して周る.そして運命の29日,午前4時,
宿泊していた『近水楼』が反乱を起こした保安隊に襲われるが、駆け付けた関東軍の精鋭に叩かれて遁走する.手記を続けよう.
「救援の先遣機動隊が通州西門へ突入したのが,翌30日の午後4時.この時すでに目指す冀東叛乱軍は城内を引き払ってもぬけの殻,後に残されたものは夏なお寒い死の廃墟だけだった.
将兵は城内に足を踏み入れてただ呆然とした.死臭は漂い人影はない.暴虐のあとを見てつきでる言葉もなかった.街のあるところでは日本人家屋の屋根にほおりあげられた子供の惨殺死体があった.足をもって振り回して石に叩きつけ,死ぬのを見て投げたものと見られた.襲撃目標のひとつとされた近水楼あとへゆくと,廃屋の床にいくつもの屍体が転がっていた.壁には剥ぎ取られた婦人の頭髪が血糊といっしょに張りついていた.庭先の蓮池には,婦人の死体が2つ3つもう腐爛して水に浮いていた.…庭先の一隅に20名ばかりと思われる日本人男女一団が,青ざめた顔をして固まっているのを発見,先遣隊が救出した.…筆者等が引かれていった北門脇の銃殺場あとには,ドブ池に覆い被さったザッと百名近い死体を見た.そこでの惨憺たる暴虐のあとは筆舌に尽くせない悲惨を越えたものだった.8月2日,通州へ入った天津軍幕僚の報告は『城内北側の池で邦人死体OO個を発見したが,どの死体も残忍の手が加えられ判別するのに困難をおぼえた』とある.
当時発表された生存者数は内地人男性41名,女子24名,子供12名,合計77名,(朝鮮)半島人男子15名,女子23名,子供20名で総計135名となっている.通州在留邦人数は380余名だったというから,二百数十名の日本人が兇刃の犠牲となったわけであった』
これも『歴史の真実』である.中国の教科書に正確に記載して欲しいものだが,せめて日本の教科書にも記載すべきであろう.
この事件は,この当時の反日・侮日の雰囲気の高まりの中で起きた悲劇だが,大連での今回の『事件』も決して無縁ではないと思う.日本政府の毅然たる対処を切望する.