軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

コメントにお答えして その2

航空機事故について,前回御紹介できなかったブルーインパルス機の墜落事故について,簡単に書いておこう.
1972年11月4日土曜日,展示飛行を終えて浜松に帰投するため,入間基地を離陸した一機が,T−33の事故同様エンジンが停止した.私は当時浜松の第1飛行隊の教官で,この日は所用で午後まで居残りをしていた.突然一斉放送で『ブルーインパルス・金子2尉機が入間川に墜落した』と告げられた.私は直ちにT−33・1機を準備させ,後席に整備主任を乗せて入間に飛んだ.
事故の概要は,1220に離陸したF−86F・773号機(金子2尉・当時)のエンジンが停止し,再始動を試みたが不可能だったので,彼は入間川に機首を向け地上の被害を避けるため,ぎりぎりまで我慢して,計器高度700フィート(入間基地の標高は295フィートだから,実質高度は400フィート=約120メートル)で脱出,地表約4メートルで開傘し,間一髪生還したものである.
この日彼と一緒に「外来宿舎」に泊まった私は,直接彼から話を聞いたのだが,普段考えても見なかったことだらけだったから,非常に印象的であった.
エンジンが停止した原因は、燃料ポンプのスプライン軸が破断し,燃料供給が止まったためであったから,いくら再始動してもかかるわけはなかった.空転するエンジン,排気温度、油圧が低下する中で,何度も再始動を試みつつ,機体を無理やり入間川に向けた彼は、規則で定められた最低脱出高度を切っていたが,いちかばちかレバーを引いた.空中に放り出された時点でうまくロケットシートカタパルト,シートセパレーターが作動し座席が離れたが,落下傘の補助傘が放出される速度にはやや不足していたから,石ころのように落下した.その間,眼下の河原がどんどん近づき,石などの姿がはっきり区別がつくようになり,やがて自分が「叩きつけられる」筈の地点が岩だらけで,その岩の一つ一つが鮮明に見え始めた、という.
『自分はあの岩に衝突して即死するのか』と思った瞬間,彼は思わず「脚を縮めた」という.その瞬間開傘の衝撃を受け,次の瞬間接地したのであった.
河原で炎上している愛機に近づくと,機銃弾箱に入れていた「ブレザー」が燻っていたが,ポケットに5000円入れていたことを思いだし,無事回収に成功した時は「儲かった!」と思ったと嬉しくなったと言うから,何ともかわいらしい.しかし,当時の5000円は大金である!
実はこの時エンジンだけは機体から外れて飛び出し,百メートル近く河原を直進して土手で止まっていたのだが,それを知った彼は河原を走って『どなたかお怪我された方はいませんか』と夢中で呼びかけたのであった.上空を旋回する編隊長が「被害の状況を知らせ」と無線で指示した際、『被害はない模様』と答えた彼に『模様とはなんだ!はっきり答えろ!』と怒った話は有名だが,実は彼はその頃、河原にいた釣り人達一人一人に尋ねてまわっていたというから面白い.
「だって佐藤1尉、全員無事だと確認するまでは『模様』としか答えられませんよね」と彼は言った.
私が「金子,石にぶち当たって死ぬ!と思った時に,奥さんの顔が浮かんだか?」と意地の悪い質問をしたところ,「全然浮かびませんでした」と正直に答えた.
その後大分経ってから『佐藤さん,家内が口を利いてくれんのですよ』と言う.奥さんも私と同じことを尋ねたらしいのだが,彼は奥さんにまで正直に?答えたらしい.奥様としては『当然』だったろう!『嘘がつけない』哀れな空自パイロットの物語であるが,この時「赤旗新聞」始め各方面で,彼の沈着な行動は高く評価されたのであった.勿論,被害者が出ていたらそうはならなかったであろうから、この事故は彼の人柄を知る「天が救ったのだ」と私は今も思っている.