軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

インドネシア帰還兵の独り言ー2

〈1948年のロスアンジェルス大会〉

  • TVは,1948年のロスアンジェルス大会を放送した.アメリカ国籍の日本人有志が,選手のスポンサーを買って出た.夫婦は〈食べろ,食べろ〉と奨めたら,古橋と橋爪達(当時の水泳代表)は「ステーキ8枚食べた」とか,「ハンバーグを10枚食べた.コカコーラが旨かった」と感激している.その頃の日本は,世界第1の貧乏国である.
  • 兵隊は,ジャングルの案内役のからゆきさん(戦死者も多い)と小売商人が,日本軍に献金もする、献身もするであった.ロスアンジェルス篤志家も同じ体質だった.幸甚にも古橋と橋爪は世界記録を出した.各段の差だったからアメリカ人は「ジャップ」をやめて「ジャパン」にした。古橋と橋爪が帰国したら「二人の世界記録で日本中が明るくなっていた.日本人がアメリカ人に卑屈でなくなっていた」と放送している.
  • 1948年,我々夫婦は,烏森口で生花店を開いた.妻の敦子は心臓病の持ち主だし、結核の既往症があるから、河上丈太郎(聖人)の同士・大橋医学夫妻(東大出身。奉仕に徹していた)にかかりきりだったが,夜になると駅に寝ている戦災孤児にお粥や雑炊を御馳走した.肉屋さんも八百屋さんもサービスしてくれた.ある時,目の大きいオジサンが「俺も食べたい」と言ったが,みすぼらしい服装だった.しかし,このオジサンは、東大の生産研究所で溶鉱炉を研究している金森教授で,学生と一緒にカストリ横丁でおでんを食べていた.金森教授の父上は熊本バンドの金森通倫牧師だった.孤児たちが雑炊に飛びつくと金森教授は聖歌を歌った.激励である.
  • 敦子は孤児のうち少女(十三歳以下)は家に泊めたが,時々売り上げを盗まれた.敦子は「あれで何ヶ月生きられるのかしら」と心配した.日本人が全部栄養失調だった.
  • 天皇陛下は,マッカーサー将軍に「500万人餓死します。食糧を特配して下さい。私(天皇陛下)の命が必要なら死刑にして下さい.お金が必要なら皇室の財産を差し上げます」と仰言ったから、マッカーサー将軍は天皇陛下の高貴性に震え上がって馬鹿にしなくなった.つまり,古橋と橋爪とからゆきさんと金森先生と天皇陛下が.日本を支えたのである.

      「7月23日曇り.雨になる.涼風.5時半。
         盆踊り,嬌声の娘は福建語  」