軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

年頭に思ったこと(その2)

 8日に、チャンネル桜の収録で各社の記事に目を通した。あきれたのは4日の朝日新聞の社説で、性懲りもなく「防衛庁昇格」に抵抗していた。昨年も「古い上着(庁)のままで良い」と書き、今年も「専守防衛だから周辺諸国に理解されていたのだ」などと、理解に苦しむ論調で情けなくなったが、その乱れ方からすると、多分社内に何かとてつもない大問題が起きていて、規律が乱れているのではないか?と思う。航空安全を担当する「航安隊司令」時代に「人心の乱れが事故に通じる」ことを確信した私の目にはそう映る。今年はマスコミの大掃除が始まる予兆かもしれない。

さて、前回書き残した8日付の産経新聞を読んだ「年頭所感」の続きである。

1、18面の曽野綾子氏の「透明な歳月の光」欄はお気に入りの一つなのだが、今回も考えさせられた。サダムフセインの絞首刑に関して「正式の裁判によって裁かれたとアメリカは言うだろうが、そんなことはアラブ世界の誰一人として信じてはいない。これは彼らの文化からして復讐劇だったのである」という。「40年後に復讐をしてベドウィンは言うのだ。『素早い仕事だったよ』」。また「サダムは犠牲祭の始まる日に処刑されたのだが、イスラム教国では、祭りを記念して犯罪者を釈放する習慣こそあれ、処刑はめったに行われないという。この日に処刑が行われたのはイスラム法に反し、イスラムの習慣を否定するものだ、とサダムに虐殺されたクルド族出身のリズガール・モハメッド・アミン判事までが言う。一方で、かってイラクに攻め込まれたイランとクウェートは『処刑を歓迎』し、クウェートの情報大臣は『犠牲者の最上の贈り物』といっている」。その処刑を待つ時間に、日本のNHKの海外放送は「四角い仁鶴が…」の娯楽番組を「平然と流し、帰省ラッシュの開始をトップ番組にすえた」。そして曽野女史は「私たちはこういう国際感覚ゼロ、ニュース性ゼロの『公共放送』に視聴料を払っているのである」と結んだ。

2、戦後の処理が「復讐劇」であることはある意味当然であろう。何せ「地球よりも重い命」を奪い合った後なのだから。東京裁判がその良い例である。アメリカだって「儀式化した」復讐であることなんぞ百も承知であろう。彼らの大陸開拓持代のインディアンとの戦闘は残虐を極めた。漸く押さえ込んで居留地に“収容”したあとでさえも、頑強に抵抗したインディアンたちを殲滅しようとして病原菌を仕込んだ毛布を送り込んだこともあったくらいである。これがBC戦争の走りだといわれているのだが殺し合いの実態はそんなものだということを理解すれば、処刑に当たっての「文化の相違」など瑣末なことだと思う。事実、大東亜戦争後、いわゆるA級戦犯が処刑された日時は「12月23日」であり、次期天皇の誕生日であったことは記憶に新しい。戦勝者として彼らは、未来永劫、日本人が国旗を掲揚するたびに屈辱を感じるように計画した筈だったのだが、戦後教育の効果がありすぎて日本人は天皇誕生日も、国旗掲揚も忘れてしまったから、計画は失敗した! 
3、公共放送の「気配り」もそうである。「文化の違いを気にする」などという、大それたことでは決してなかろう。御巣鷹山に整備不良の旅客機が墜落して520人もの乗員・乗客が犠牲になったことがあったが、凄惨な現場からは、焼け爛れた犠牲者の姿が詳細にレポートされていたが、そのさなかのCMでは「焼肉のたれ」の広告を平然と流して恥じなかった。他方、文化が異なる米軍放送は、一切の娯楽番組・ポップスなどの音楽も自粛して、犠牲者に哀悼の意を表した。
「文化の違い」は当然考えるべきであるが、担当者(記者やディレクターなど)の当事者意識の欠如がその大元にはあるのであり、その責任はつまるところ上層部の意識にあると私は思っている。人種が違っても「人間であることの自覚」が根本になければならないはずなのだが…。そうなると宗教論争になるのだろうか?

4、同じ日の日下公人氏の書評に関するコラムも面白かった。「アメリカに頼らなくても大丈夫な日本へ」(PHP研究所)の書評で「日下公人さん・現実主義の日本論」というタイトルだったが、「日本人は、友好親善が永続すると思っているが、それは国内だけの話。国際社会では、支配と被支配で考える人ばかりで、覇権主義であることを、理解しなければならない」というのだが「国内」でも通用するか否か?は別にして概ね同感である。「国家間での支配権争いの手段は、行使しなくても軍事力が第一。次に経済力。この二つが必要で、それに文化力がついてくる。日本はアメリカの力を借りてもいるが、多くの国に対して4つとも勝っている」という。「GDP世界第2位。陸海空自衛隊の規模と質。ドイツよりも広い国土。1億人を超える人口。どれもが欧州諸国を基準とすれば、大国としての要件を、十分に満たしているのではないだろうか」「4つの力で日本に勝てない国は、別の手段として“思想戦”を仕掛けてくる。これからは、思想戦が軸になる。中国は10年前から、これに気付いている」というが全く同感である。
 そしてその「思想戦」は既に進行していることを忘れてはならないだろう。自分の国はまず自分で守る。そして足らざるを「同盟」で補う。これが軍事の基本である。 アメリカに頼るのは「自然の成り行き」だろうが、頼りすぎると自滅することを忘れてはなるまい。

5、今朝までの新聞では特に目新しい記事はなかった。テレビでもせいぜい「防衛庁」の「省昇格行事」関連だろう。1000通を越える今年の年賀状を見て、現職始め自衛官OBの殆どがこれを冷静に受けとけていたので安心した。はしゃいでいるのは「部外者たち」だけではないのか?
 それにしても写真で報じられた「防衛省」の看板の文字はいただけない。誰が書いたか知らないが、気迫に欠ける。良く言えば「おおらか」、極言すれば「しまりがない」。コメントにもあったが、名は体を表すというから、誰もが気にしていることだろう。報道されたものは一時的な看板で、正式なものは製作中だというから、我慢することにするが、毅然とした字体のものであってほしい。あれじゃ24万の自衛官たちの士気は上がらない。
 今までは、官庁では大臣や高級官僚に気を配って看板を書かせる風習があったが、少なくとも「代議士」だけは避けたほうがいい。何時スキャンダルで引退するか知れたものではない。そうなったとき、残った看板は「物笑いの種」になり、恥を後世に残すことになりかねない。
 
 安倍政権の今後について色々言われているが、次は某大臣が怪しくなってきた。次々に「淘汰」されていく気配がするが、これも腐りきった今までの政界の大掃除を狙った戦略なのかもしれない。何を思ってか、地元では「とうとう頭にきよったバイ」といわれている代議士もいて、“思想戦”に嵌ったのか、突然北朝鮮に出かけたが、今年も政界の混乱は続くだろう。こんなことで首相の指導力が問われてはならないのだが、人材払底の日本政界である。夏の選挙までに大掃除が終わってほしいものである。勿論、その前にマスコミの大掃除が終わって欲しいものだが…