軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

映画「南京:戦線後方記録映画」

 昨夜は、チャンネル桜の「南京」(スカパー:ハッピー241)を見た。チャンネル桜代表の水島氏が司会し、東中野亜細亜大教授と冨澤南京学会理事が解説・コメントした。
 放映されたのは、昭和13年、東宝映画文化映画部が、南京陥落直後に現地で撮影したドキュメンタリーで、インターネットでその部分部分が流れていたのだが、約一時間に亘る全記録には、「南京大虐殺で30万人が殺された!」という中国政府の宣伝とは裏腹に、なんとも気抜けするぐらい穏やかで、平和な南京市内の状況が写し出されていた。勿論、中国軍が、日本軍が入場する前に、焦土作戦で民家などを焼き討ちにして逃亡した状況も良く分かる。
  南京城壁を攻撃するシーンは、今流行の<再現ドラマ>だったが、朴訥な兵隊さん達の動きが実に素人っぽい。有名な松井司令官などが場内に入場するシーンは、動画で見るのと写真で見るのは大違い、戦没者の慰霊祭も、実に厳粛でわが軍の規律厳正さが良く現れていた。
 占領後、部隊は直ちに追撃戦に入るから、続々と城門を出て戦地へ出動する。
場内警備で残ったのは、京都と奈良の連隊、約4500名、それに対する南京市民は20〜25万だという。勿論外人も同居している。こんな圧倒的な戦力不足の状況下で30万人もの大量虐殺をしたというのであれば、このようなシーンは絶対に撮影できなかったであろう。正月に爆竹を鳴らして遊ぶ中国人の子供達の表情からも、市内の治安が回復されたことが十分伺える。
 日本軍の占領統治が始まると、多数の中国人が「認可証明書」を受けるために行列するシーンも実に平和で、列に割り込もうとする“強引な”男達を、並んでいる中国人たちが入れまいと小競り合いするシーンなどはリアルでユーモラスであった。「南京大虐殺」が、中国側による虚構の「反日宣伝」であることが、また一つ証明された。
 この映画を収録したDVDは、日本映画社が販売しているというから、是非購入してご一覧戴きたいと思う。私は録画したから、家族でゆっくり鑑賞し直す所存。ちなみに値段は税込みで\3990だそうである。

 ところで、書斎整理で次々に本や小冊子などが出てくるのだが、「南京事件」に関する面白い記録などを、ここに書きとどめておきたいと思う。

1、私の昭和史(中村武彦著:展転社刊¥1500+税)
「上海南京瞥見(115ページ)
この年(昭和十五年)の三月から五月まで片岡・奥戸両氏とともに上海に赴き、両氏が帰国したあとも私だけ残って、上海南京を中心に江南の各地を見て廻った。支那駐屯軍から中央へ圧力をかけてもらいたい維新工作や、資金や武器に関する仕事もあったが、表面は、新国民政府南京還都の前後の情況を良く見て来ることであった。私は上海憲兵司令官三浦三郎少将の公館に泊めてもらってゐたが、三浦は私と遠縁に当り、陸軍大学を出て憲兵になったのはこの人が最初という変り種。統制派に属してゐても、派閥感情は少ない良心的で優秀な武人であった。
 上海も南京も治安は良く保たれてゐたが、軍人にも商社関係にも、殊にヒト旗組の連中には傲慢横暴、許し難い者が少なくなかった。このように扱はれる支那人が日本人に心服する筈がない。日本軍の形勢が悪くなったら、一夜にして中支一帯反日のルツボとなるであろう。南京政府は吹っ飛ぶ。汪兆銘はまことに気の毒だ。三浦司令官にそれを話すと、その通りだ、それで悩んでゐるのだと顔を曇らせてゐた。・・・
(116ページ)(前略)私が南京を訪れたのは丁度、梅と桜と桃の花が一斉に咲いた江南の春であったが、市民の顔もまさに春風駘蕩、僅か二年半前にここで腥惨な戦闘の行はれたことを示すものは城内にはほとんど見あたらなかった。
 鹿子木先生が痛嘆された皇軍軍紀紊乱についても、会った人たちみな異口同音に「残念だが、しかしあの程度のことはどこの戦争にもつきもので避けられない。あまり厳しく責めないで下さいよ」と云う。此処で二年半前に二十万の三十万のという大虐殺が行はれたとしたら、必ず何らかの痕跡を私も見たであろうし、噂ぐらいは聞いたであろう。支那人の市民がこんなに悠然と生活できるもはずも無い。南京大虐殺説は全く架空のデッチアゲだと私は信じて疑はない」

2、「興亜観音第15号」(平成14年4月18日興亜観音を守る会事務局発行)
「(前略)・・・昭和三十五年、岸内閣の時、日米軍事同盟が締結されましたが、この時左翼が猛烈に反対しました。・・・岸首相は私どもにこういわれました。『これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。君たち大アジア主義者は向学のため、これから台湾に行って蒋介石氏と会い、台湾の軍事基地も見学して、将来のアジアの平和と安全について考えて欲しい。蒋介石氏には私から紹介状を書いておく』。私ども同士五人は早速台湾に向かいました・・・
 約一週間の後、台北の旧総督府蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれました。私ども同士一人一人が、蒋総統の前に進み出てお礼を述べて蒋総統と握手をするのです。最後に私は蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後『私は閣下にお目にかかったことがございます』と申し上げました。すると『いつ?どこで?・・・』とたずねられた。『昭和十一年(一九三六年)二月に、松井石根閣下と二人で、南京でお目にかかりました』そのとき『松井石根』という名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。目を真っ赤にし、涙ぐんで『松井閣下にはまことに申し訳ないことをしました』手が震え、涙で目を潤ませて、こういわれるのです。『南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・といいながら涙しつつ私の手を二度三度握り締めるのです(以下略)
  同会会長・田中正明東京裁判とは何か、七烈士五三回忌に当たって>より」                    
 今回見た「映画:南京」は、これらの状況証拠を全てつなぎ合わせるものであった。そろそろ、日本人もかっての“敵”の一方的な「宣伝戦」に左右されることなく、当時の状況証拠を世界に示しつつ反撃すべき時ではないか?
 チャンネル桜の水島氏が取り組んでいる、映画『南京の真実(仮題)』に大いに期待したい。