軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

映画『南京』補遺

 コメントにもあったが、中村武彦氏の著書にあった「鹿子木氏の見解・・・あの程度のこと・・・」は捕虜の処断であって、一般人を含めた計画的な「大虐殺」のことではないことは明らかである。しかし、日本の歴史学者などの中には、これらも同一視している者がいることが問題なのである。
プロパガンダの大虐殺』と、治安維持のために、軍服を脱ぎ捨てて安全地帯に隠れて“悪さ”をする支那兵達の処断は当然区別すべきものであろう。
 ところで、このDVDに英語の字幕をつけて、米国などに見てもらうというアイデアには賛成である。南京虐殺に関する書物は、中国側が相当数英語版を出していて、(アイリスチャンのデタラメ版もそうだが)日本人教授など研究者の研究書で英訳されたものは、東中野先生の一冊だというから、宣伝戦に太刀打ちできないのは当たり前である。私のブログの愛読者のなかに、日本映画社の関係者が居られたら、是非このアイデアを推進して欲しいと思う。
 たまたま、週刊新潮(4月19日号)の桜井よしこ女史の連載コラム『日本ルネッサンス』に、4月2日に立命館大学教授の北村稔氏が東京有楽町の外国特派員協会で講演したことが書かれている。北村教授のテーマは『南京大虐殺』で、桜井女史は詳しい内容を書いているが、北村教授は著書である「南京事件の探求・その実像を求めて」(文春新書)を元に、「南京大虐殺」は存在しなかったと主張したという。内容は読んでいただくとして、桜井女史は「事実と誠実に向き合え」と強調しているが全く同感である。今からでも決して遅くはない。
 アイリスチャンの本は読んではいないが、藤岡東大教授の「正論」によると、次のような表現があるという。
「日本軍は、機関銃、ピストル、ライフルを使って、中山北路や中央通りや近くの路地にたむろしていた負傷兵、老女、子供からなる群集に発砲した。日本軍はまた、狭い路地、中心の大通り、泥作りの防空壕、政府の建物、町の広場、などなど市のいたるところで中国人の市民を殺しまくった。犠牲者が地面に倒れ、うめき、叫ぶにつれて、陥落した首都の街路や路地や排水溝は血の河となって流れた」
「多くの日本兵は、強姦だけにとどまらず、女性の腹を裂いて腸を抜き出し、乳房を薄切りに切り落とし、生きたままクギで壁に打ち付けた。父親は自分の娘を、息子は自分の母親を、家族が見ている目の前で強姦することを強要された。生き埋め、性器切断、内臓摘出、火あぶりが日常的になっただけではない。舌に鉄のカギをかけて吊るしたり、腰まで生き埋めにされた犠牲者達が生きながら軍用犬に引き裂かれるのを見物するといった悪魔的な行為が行われた。その吐き気を催す光景には南京在住のナチ党員達すら慄然とし、大虐殺は『機械仕掛けのけだもの』の所業であると断言したほどだった」
 当時の南京に何人ナチ党員がいたかは知らないが、これを読んで私は、これと同じ表現の文章をあちらこちらで読んだことがあることに気がついた。その中の一つだけを少し長くなるが掲げておこう。何度もご紹介した「中国は如何にチベットを侵略したか」(マイケル・ダナム著)の第5章「大虐殺と菩提樹」の中にこうある。1937年ならぬ“1956年”のことである。
毛沢東はラジオで1000万人の中国人をチベットに移住させると約束していた。中国と国境を接するゴロクがその最初の犠牲にされた。毛はまず数千人の中国農民をゴロク族の牧草地帯に入植させた。しかし、ゴロク族はラサ市民と違ってデモなんかやらなかった。部族民も僧侶も一斉に武器を取り、移住して来た中国農民に情け容赦なく襲いかかったのだ。中共軍も直ちに反撃を開始した。(中略)
 中共軍は大挙してゴロク族の居住地を襲撃、家畜の群れを略奪し、人家を焼き払い、数千人の老若男女を殺戮しまくった。生き残ったものは山に逃げ込み、以後はひたすら中国人を殺すためにのみ生き続けることを誓ったのだ。しかしこのゴロク族の惨劇も、他地域のチベット人は長い間知ることなく、諸外国に至っては何年もの間全く気づくことはなかった。通信手段の貧しさ故である。
 南カムの奥地でも事態は深刻だった。中共の土地改革に従わなかったチャテンク族は直ちに中共軍の攻撃を受け、チャテンクのサムペリン僧院に逃げ込んだ。僧院は包囲され、中共軍の飛行機がビラを投下して投降を促したが、人々が拒否するや、爆撃が開始された。中共軍にとっては、地上戦よりずっと味方の犠牲が少なくて済む方法である。あっという間に僧院は跡形もなく破壊され、少なくとも2千人以上が殺された」
「カム、アムド、ゴロク、どこの村でも中共の虐殺を経験しており、抵抗の狼煙を最初に上げたのは自分達の村だったというだろう。誰も間違ってはいなかった。ほんの数週間のうちに東チベット抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。
 中共側も負けてはいない。妻、娘、尼僧達は繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧達は狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧達はそこで連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、『仏陀に腕を返してもらえ』と嘲笑された。大勢のチベット人たちは、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧達が散々殴打されて穴に放り込まれ、村人達はその上に小便をかけるように命じられた。さらに高僧達は『霊力で穴から飛び上がって見せろ』と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。怯える子供達の目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収用されていった・・・」
 アイリスチャンは、自国兵たちのチベットでの大虐殺行為を下敷きにして「レイプオブナンキン」を書いたのではなかったのか?
 こんなおぞましいまでの殺戮行為は、日本人にはなじまない。「日本兵」を「中共兵」に置き換えて、『レイプ・オブ・チベット』と改題した方が適切だろう。
 日本人の中にも、昭和12年7月29日に「通州」で起きた250人以上といわれる邦人虐殺事件を覚えておられる方もいるであろう。中国兵による残忍な殺害方法に、日本人は激怒し、救援に駆けつけた日本軍を激怒させたあの事件である。
 用事でたまたま「近水楼」と云う旅館に宿泊していて女将から隠れるように指示され、天井裏に隠れて危うく災難を免れた一日本人が、その残虐行為を目撃し、手記に書いているが、その情景はまさに「アイリスチャン」が書いたとおりである。
 彼女の取材が如何にいい加減であったかを物語るものだが、本多勝一氏の「中国の旅」もこれに類した“取材”方法だったに違いないと私は思っている。