軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

盧溝橋事件70周年

 今朝の産経新聞6面に「盧溝橋事件70周年・反日色弱め式典」という記事が出た。「日中戦争支那事変)の発端となった盧溝橋事件から70周年を迎えた7日、北京郊外の盧溝橋近くにある「中国人民抗日記念館」で記念式典が開かれた」という。
 昭和12年7月7日、中国共産党劉少奇率いる反日学生グループ、国民党軍内に潜伏して反日活動をしていた共産軍兵士等が、演習中の日本軍に「実弾攻撃」をかけ、数次に亘る休戦協定を意図的に踏みにじって、ついに日本軍が苑平県城内に攻め込んだ日である。
「主催者側は『歴史を忘れず、平和を愛し、中日両国民が未来を切り開くことが重要だ』と強調した」そうだが、意味深長である。これが日本軍を中国国内に侵攻させて、ソ連の後背部の安全を確保しようとしたスターリンの陰謀だったことは今日ではほぼ定説になりつつあるが、独り日本人だけが未だに『歴史を忘れて』日本が侵略したと思い込んでいるのだから始末が悪い。第一級資料は山のようにあるから、若者達にしっかり学んで欲しいものである。

 ところで海上自衛隊創設時の問題を取り上げたコメンテーターの“勘違い?”にかなりの意見が殺到してコメント欄は一杯になっている。繰り返して申し上げるが、私のブログは、気の向くままに勝手に私の考えを書き込んでいるのであって、誰に強制するつもりもない。各自の御意見を、あるいは知識を、コメントして下さって一向にかまわないのだが、今まで何回も申し上げてきたように、長文を披瀝されると他の方々の御迷惑になるし、逆に他のコメンテーターから敬遠されて、折角の貴重な御意見が読んで貰えないという結果を招きやすい。「5行以内に」という御意見もあったが、議題が議題だけになかなかそうもいくまいと思われる。しかし、この御意見を意識してお書きになるようにお願いしたい。ちなみに私は他人の御意見を伺うのが好きなのでじっくりと拝聴しているが、このところ時間が不足気味で少々困っている・・・

 さて、既に多くの方々が、海上自衛隊創設に関する彼の意見に所見を書いておられるから詳細は省くが、『海上自衛隊はこうして生まれた』という『NHK報道局・自衛隊取材班』が出版した本がある。これは平成14年8月14日に放送された『NHKスペシャル』の取材を通じて得た事実を取材班が一冊の本にしたものである。
 実はその直前に、北海道の島松演習場で訓練中の航空自衛隊のF-4ファントムが、訓練弾を不時発射する事件が起きて騒ぎになっていたとき、防衛庁担当記者から説明を求められたことがあった。対地射爆撃訓練や射撃時の操作などについて全く無知な記者さんたちだから「空幕広報室」からよろしくお願いします、と言われて引き受けたのである。本来ならば現役が担当すべきものだが、OBで元広報室長、その上F−4飛行隊長でもあった私は「適任?」と考えられ“無料奉仕!”を依頼されたのである。スタジオで縷々解説し「状況から人為的誤射ではなく、何らかの機械的原因だ」と説明したのだが、どうもパイロットの操作ミスにもって行きたかったようだ。そこで、退官記念に貰っていた飾り物の『操縦桿グリップ』を持ち込み、引き金の操作法、安全装置などを懇切丁寧に説明していたところに、「空幕が電線がショートしたらしいと原因を発表しました」と連絡が入り、取材はこれでチョン!になったのであったが、そのときの担当記者がO記者で、その後、海上自衛隊創設時の『機密書類』をテーマにした番組制作時に、資料を整理していた彼が「Y委員会」の幹事であった寺井義守元中佐が私の義父にあたることに気がつき、資料がないかとたずねてきたのである。
『Y委員会』とは、戦後極秘裏に独立回復後の再軍備のあり方、特に海軍力整備のあり方について有志が集まって研究していた会のことで、その報告書がこの本でいう『Y委員会文書』である。
 私がまだ3佐で幹部学校学生だった頃、官舎がないので家内宅に同居させてもらっていた時、義父も毎晩遅くまでY委員会議事録など『古文書』を整理していて、よくそれを手伝ったものである。海軍時代の用箋など、古い紙に手書きで書かれた資料で、紙縒りで留めてあるものもあった。完成した文書は海幕に保管されていた筈だが、その文書を知った彼が番組製作を担当し関係者がコメントする形となり、私も不細工な顔を少しだけ出す羽目になった。その経緯をまとめたのが写真の本である。
『よみがえる日本海軍』を書いた、ジェームス・E・アワー教授もその前によく義父を訪ねてきて取材していたが、海自創設には米海軍の強力な後援があったことは事実であった。陸軍もZ委員会と称して真剣に研究していたが、少なくとも海軍においては、敗戦の教訓を取り入れて今後の世界情勢判断から、国力に相応しい『スモール・ネービー』を目標にしていた。その後米国で空軍が『独立』したこともあって、海空軍構想は破棄され、航空自衛隊が『独立』することになる。この間の経緯も非常に面白い。
 このように戦後間もない頃から、旧陸・海軍の穏健派が手弁当で真剣に戦後日本に相応しい『再軍備』を求めて研究していたのである。空自独立についてみるだけでも非常に参考になるが、いずれ機会を見て語ることにしたい。

 そんなわけで、戦後の『再軍備』に関する旧軍人達の研究は決していい加減なものではなかったことだけは事実である。むしろ、その後『独立』したにもかかわらず、憲法始め、軍備に関する一切の『衣替え』をしなかった戦後政治の『怠慢』こそ、最も悔やまれるものだと私は思っている。それを若い安倍首相が初めて真剣に取り組む、と宣言したのだから、私が感心し喜ぶのも御理解いただけるであろう。
 義父はその後海上自衛隊の創設に献身し、バーク大将始め多くの『旧敵国海軍軍人』たちと親しく付き合った。今でも「ニミッツ大将手書きの手紙」などが残されていて、三沢基地司令時代に、たまたまそれを知った米海軍司令官がよく私の部屋に遊び?に来ては「宝物だ」と熱心に手紙類に目を通していたものである。
 太平洋戦域で戦った米海軍提督たちの中で、義父が唯一会えなかったのは『スプルアンス提督』であった。「パイロットでなかった彼が、貴重な空母群を率いて強力な日本海軍機動部隊に果敢に襲い掛かり、大勝利を収めたときのことを聞きたかった」といつも残念がっていた。いうまでもなく『ミッドウェー海戦』のことである。義父はその頃、米国の収容所にいて17年8月に交換船で帰国したのだが、帰国後、それも大分経ってから「ミッドウェーの大敗」を知らされたのであった。この本は“NHK編集”だからお気に召さない方?もおありだろうが、読みやすいので御一読をお勧めする。

 盧溝橋の抗日戦争記念館の李宗遠・副所長は「復讐心を煽る反日教育ではない」と述べた上で「写真を撤去せよと主張する日本の国会議員は参観するべきだ」と強調したそうだが、盧溝橋事件の事実を勉強せず、戦後の一方的な「敵のプロパガンダ」しか学んでいない議員は行っても無駄である。しっかり「歴史認識」を確立してから参観しても遅くはない。あそこには歴史を認識しないで行った例の村山首相の日本国民に千載の悔いを残す「変な揮毫」もあるはずだから一緒に見てくるがよかろう。何はともあれ、この国ほど、宝の山の「書籍類」が転がっている国はないのだが、いくら良書が溢れていても読書しなければ身に付かない。そんな有様では、一方的な「正史」しか教え込まれていない中国青年と知識は何ら変わりないということになろう。