軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

盧溝橋事件の考証と教訓

 表記の題は、私が平成5年に部内誌である「鵬友(幹部学校幹部会発行)」に連続3回投稿した論文「謎の一発」の副題である。論文の構成は、

 はじめに
1、「盧溝橋事件」の一般的なとらえ方
 (1)日本側の認識・・・自己反省と日本側責任説
 (2)中国側の認識・・・日本軍の挑発・謀略説
 (3)少数意見・・・中国共産党の謀略説
2、考証
 (1)中共の活動と思われる事件と多くの謎
 (2)事件の経過と「謀略活動」
 (3)停戦協定成立後の「妨害活動」
 (4)その他の興味ある発言
 (5)「事件発動は中国共産党」だと言う証言
 (6)第一発の犯人は誰か?
3、教訓
 おわりに
で、引用、参考にした文献はすべて最後に掲載した。

 航空教育集団の幕僚長時代の論文でいかに自由時間が多かったかを示す証拠でもあるが、単身赴任中であったこと、及び部下達の「上がりで食っている?」“左団扇の優雅なポスト”だったことが大きい。
 幹部学校戦史室長であった先輩が私の「作文」に大いに共鳴して、3回に分けて掲載してくれたのであったがその先輩には専門的な知識と資料を御提示いただいたのもありがたかった。

 前回のブログに「未成年」氏が、衝突が起きた理由の一つに一兵士の行方不明があったとは本当ですか?と質問していたから、よい機会だと思ってこれを掲げたのだが、危険を感じた清水中隊長が、演習中止を指示した際、兵士一名が不明だった。そのため、苑平県城内(中国軍陣営)に拉致された恐れもあるとして軍が緊張したことは事実だが、やがてその兵士は無事帰還した。この部分を清水中隊長は手記にこう書いている。抜粋しておこう。
「午後4時半ごろ演習地に来てみると、堤防上には200名以上の支那兵が白シャツ姿で盛んに工事をしている。そこで彼らの工事を待つため、一時堤防の手前1000メートルの位置に休憩、部隊はすっかり汗になった上着とシャツを乾かし夕食を喫した。私は演習仮設敵を配置し、夕食をとりながら付近を観察して今夜は何か起こりはせぬかと予感がしたのである。なぜかというと、20日ほど前ここで演習した時何もなかった永定河の堤防上に、その3日後には鉄道橋頭近く幅20メートル内外の2個の新しい散兵壕の胸墻(きょうしょう:胸の高さほどに築いた堆土)が見え、その後工事を続けたらしく鉄道橋頭付近から上流竜王廟の北側にわたって一連の散兵壕が完成しつつあり、また堤防の手前に古くからあった土饅頭が最近掘り返されて、トーチカの銃眼がこちらに向かって口を開いている。もとよりこの方面の険悪な情勢は十分承知し、最近旅団長(河辺正三少将)・連隊長(牟田口廉也大佐)からも注意があったが、これほどまでに逼迫しているとは予想もしなかった。(その後清水大尉は部下を集め、支那軍に対する心構えを十分に教育し、部隊配置して演習を始めるが作業が終わっても支那兵は兵営に引き上げなかった)
 午後10時半頃前段の演習を終わり、明朝黎明時まで休憩するに決め、私は各小隊長・仮設敵司令に伝令をもって演習中止、集合の命令を伝達させた。ラッパを吹けば早く集合できるが、中隊では訓練の必要上夜間演習になるべくラッパを使わぬ習慣にしていたのである。さて私が立ってこの集合状況を見ていると、にわかに仮設敵の軽機関銃が射撃を始めた。演習中止になったのを知らず部隊が伝令を見て撃っているのだろうと見ていると、突如後方から数発の小銃射撃を受け、確かに実弾だと直感した。しかるに我仮設敵はこれに気付かぬらしく、依然空包射撃を続けている。そこで傍らのラッパ手に命じて急ぎ集合ラッパを吹奏させると、再び右後方鉄道橋に近い堤防方向から10数発の射撃を受けた。(中略)行方不明の兵も程なく発見し、取るべき行動について色々考え決心に迷ったが、東北方の高粱畑と思われるところに怪火を認めるに及んでついに意を決し、現在地を徹して西五里店に移動、午前1時頃ここに到着して待機することとなった」
 付け加えるが、日本軍は演習には「空砲」を使用し、実弾は絶対に使用しない。万一の場合に備えて分隊長は実包15発携行したが、兵たちは全員「空砲」であった。これに反して中国兵は空砲を持たない。すべて実弾であった。彼らの射撃は、それが「威嚇」であってもすべて実弾だった。だから中国側が空包射撃音を聞いて、「実弾!」と反射的に考えることは十分あり得た。しかし、これに至るまでの経緯が問題であろう。中国国内における「反日教育」と「侮日活動」は、既に引火直前状態だったのである。それは、風雲急を告げる欧州情勢に備えるスターリンが、中国国内事情(国民党と共産党の覇権争い)」を利用して、後方を脅かす存在である日本軍の矛先を中国国内へ導こうとした「国際的謀略」であったのだが、肝心要の日本国の政治、軍事指導者たちの意識はそこまで到達していなかった。つまり、中国は「国民党(蒋介石)軍の支配下にある」一枚岩だと信じて?いたのである。
 現在のアジア情勢もこれに共通していると私は分析しているのだが、それはさておき、この論文で私が後輩達に言いたかったことは次の点であった。
1、謀略活動に対する警戒心を忘れてはならない。(イージス情報漏洩など嘆かわしい限りであるが)
2、情報は正確迅速に責任ある立場の者に伝えなければならない。(良い情報はあとでもいいが、悪い情報は素資料段階でも上げるべき)
3、軍隊は精強でなければ存在意義がない。(武士の情けが通じる相手ではない)
4、マスコミの影響を無視することは出来ない。(今の反安倍勢力活動にも見られる様に、その象徴的事件がゾルゲ事件であったことを忘れてはならない)
 そして何よりも強調したかったのは、寺平忠輔特務大尉のように、紛争を平和的に解決しようと不眠不休で活躍した関係者の多くが「20歳代から30歳代の、階級的にも若い」今風に言えば「3佐、1尉」という若者達であったという事実である。
「これらの若い軍人達が、中国の『大人たち』を相手に堂々と外交活動の一部まで果たしていたことを思うと、制度の良し悪しは別にして、現在の自衛隊に奉職する者として感慨無量であるのは私一人だけであろうか。
 ここに取り上げた各種の資料は、ほとんど幹部学校図書室にあるものばかりである。若き幹部諸官が歴史に興味を持ち、その教訓を生かして21世紀に向かって誤り無き進路を進まれんことを切望するものである」と当時の私はこの論文を締めくって居る。
あれからほぼ15年、現状を省みて複雑な思いである。